こころを観る

2013年11月 9日

Light and Darkness

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私のことを責める誰か、私のことを否定する誰か、私のことで傷つく誰か、私のことを罰する誰か、私のことを詰る誰か・・・それらはみな誰かという形をとった私自身だ。


怖れによる思考と恐れからくる抑圧ではなく、ただありのままを大切に丁寧に語り伝えることによって、与えられたのはむしろ思ってもみなかった自由な発想と豊かな展開、そして祝福に満ちた互いの存在への尊重と感謝だった。


何を怖れることがあるだろう。どんなに眩い光を体験しようとも、私は闇の住人であることに変わりはない。私は闇を愛している・・・いや、そのようなある一定の方向性を有する感覚ではなく、私自身が底なしの闇そのものだ。そして、だからこそ光がいかに輝かしく、眩しく、美しいかということがよくよく見えるというわけだ。


久々にやってきた大きな解放。静かに静かにまた闇の門が開き、水が広く放たれていく。これがどのように運ばれていくのかは天にお任せだ。ただただ生を楽しんでいこう。


始まりを産み出す女(3番女帝)は、終わりを刈り取る死神(13番)と表裏一体。
それらは光と闇と同じく二つで一つだ。



One does not become enlightened by imagining figures of light, but by making the darkness conscious.

                              Carl Gustav Jung


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2013年7月 2日

感情を味わうこと、自分をゆるすこと

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内側からやってくる感情の大波を堪えようとすると、肉体はダメージを受ける。筋肉に生じる緊張は増え、体はみしみしと痛みを訴える。

しかし、どんな波もやがては凪ぐ、そのことへの信頼と共に感情を味わってみれば、ふわりと次へと運ばれる瞬間がある。


肉体(自分)の中で持ちこたえよう、肉体(自分)の内に抑えようとすればするほど、感情のエネルギーは増幅され、濃縮されて、出口を求めてはさまよい暴れる。そして、それは時に肉体を痛め付け、疾病や疾患や外傷を含む症状という形を取ってなんとか外へ向かおうとする。


今日は久々に、自分がある感情を堪えようとしていることに体の反応によって気付いた。溢れ出しそうな感情を肉体の内に抑えようとすると筋肉に緊張が走り、そこに凝りや痛みが生じる。久しぶりに生じた背中の痛みと首の緊張から、自分の堪え性のパターンに気づき、すぐさま解放するよう働きかけた。


感情への抑圧のパターンは人それぞれだが、大抵はそこに怖れが潜んでいる。それは育成過程で知らず知らずに身につけた概念かもしれないし、長い歴史の中で植え付けられた観念かもしれない。それは、ある種の感情を「自ら認める、受け容れる」ことへの怖れだ。


どんなに嫌な感情も、どんなに醜い感情も、すべてはただ感情という波にしか過ぎないのだが、無意識のうちにそれらを区別し、判断してしまうが故に、そこへの怖れが生じてしまう。そして「嫌だ、醜い、汚い、不快、いけない」と判断された感情は、それを感じること自体がゆるせないものとなる。


感情をただ感情として、その波のエネルギーをただありのままにしておくこと…正に波のごとくそれらは移ろいゆく…、感情を認め、受け容れ、味わうということは、その感情を体験するとことを自らにゆるすことだ。自分をゆるすこと。そこから一気に解放は始まる。


感情は怖れるものではないが、しかし、溺れるものでもない。感情を味わう…説明するのは難しいが、言うなれば、感情と自己を同一化しないということになるだろうか。やってきて、やがては去るものは自分自身ではない。そしてまた、やがては去るものを撥ね付ける必要もなければ、握り続ける必要もない。


そうして深く深く味わうほどに、感情という波は、それはそれは豊かな反転を見せて、時には思わぬところへと運んでもくれる。感情の波に自ら潜り、あの海のような無尽蔵さに沈み切った後の浮上と解放は、何に例えればよいだろう。深く潜るほどにそれは高みを教えてもくれる不思議なからくりだ。



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2011年12月11日

心に描く情景

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心に苦しみが寄せくるとき。心が痛みに震えるとき。心に悲しみが降り積もるとき。ほんの少し目を閉じて、静かに呼吸を繰り返しながら、自分自身の奥深くへと語りかける。「ありがとう。ありがとう。大丈夫。」と、そっと声をかける。


そうしてほんの一瞬だけでも心を遠くへと旅立たせる。心に情景を描き出す。それは、いつか訪れた山や川であったり、いつか見た海や空であったり、いつか過ごした静かな時であったり。心が沈まぬように、心がおぼれぬように、自らで心を解き放つ。


今日はふと、秋のはじめに訪れた岡山の山里に佇む大きな古民家での、雨に抱かれた静かな時が心に蘇った。100年もの間さまざまな人の営みを守り続けてきた木造家屋の中、降り続く雨に包まれて過ごした優しい空白。なにもない、誰でもない、透明な時間。それは、心がただ穏やかさへと還る時。


喜びの奥には悲しみがあり、笑顔の裏には涙がある。誰かの楽しみの影には誰かの痛みがあり、誰かの笑いの後ろには誰かの涙がある。そうやっていつでも世界は循環している。あなたの喜びも、私の悲しみも、あなたの痛みも、私の笑いも、すべてはめぐりめぐってやがては空へと還っていく。



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2011年10月 5日

心に風を

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「風が通り抜けられるように、いつも頭の中を空っぽにすることを勧めます。」

オノ・ヨーコさんのtweetに、自分の心に風の通り道がなかったことに気づく。


心に風の通り道を作るということ。
それは、心を洗い流し、余分な感情を手放すということだ。


私の中に起きている不安、怒り、憤り、緊張、そういったあらゆるネガティヴな反応の波。実のところそれは、起きた出来事そのものが原因なのではなく、私自身の記憶の奥にしまわれていた感情が呼び起こされているのかもしれないと思う。

私の内なる不安や怒りが、ある出来事によって呼び起こされただけのこと。ならば、その出来事は、内なる感情に目を向けるための機会を与えてくれたということだ。


あらゆる時はいつも正しい。与えられるすべては恩恵。
そのことを、また忘れていた自分に気づく。いつも、いつも、私は忘れるのだ。

与えられる機会によって見えてくるのは、いつでも自らの不安であり、怒りであり、驕りであり、弱さなのだが、結局のところ、いつもそこから始めるしかないのが人生なのだ。無能であることを思い出し、全てを捨てたところで、また始まる。幾度となくそこへ還されては、また始めていく。繰り返し、繰り返し、そうやって生きている。



出来事は、ただ起きたのだ。そこに自分が過剰に反応し、怒りを覚え、憤りを感じ、不安を増幅させただけのこと。


手放せ、手放せ、という声が聞こえる。そこに捕らわれていては、何も見いだせず、どこにも動くことはできないのだと。


心に風の通り道を作らねばならない。洗い流し、空になるのだ。



あるがままを受け入れ、己を明け渡し、今ここを愛せと時はいう。
愛するとは能動的な行為の名称ではないのだ。
時はいつでも正しく、けれど時は不条理で、それでも時は美しい。
あらゆるすべては時のまま。ただ、時がすべてを明らかにし、時がすべてを運んでいく。 

時にしたがい、時にゆだね、時にすべてを明け渡す。
ただあるがままに、ただなされるがままに。
何かを断念するのではなく、自らを果敢に明け渡すのだ。
いつだって、今ここにあることがすべてで、そういう意味において何もかもが完璧だ。
今ここにあるすべてに己を明け渡し、すべてを楽しめと時は言う。

                               2011.11.15「時への祈り」



与えられる全ては恩恵。喜びも悲しみも、痛みも絶望も。報いも罪も、命でさえも。
生きているということは、それだけで与えられるということだ。ならば、その生を確かに生きるということは、与えられた全てを、自らの力で還していくことのように思う。


                               2011.10.20「恩恵と祈り」




一年前に書いた自分の言葉に辿り着く。
一年前の自分の言葉に、自分が気付かされている。


さて、私は何を還しているだろうか。ただ目の前の出来事に反応して怯え、不安を抱き、怒りを覚えているだけではないか?この機会はなにに気づけと言われているのか。ただ助けを求めるだけでは、そこには辿りつけないのではないか?お前は何をしたいのだと、自分が自分に突き付ける。さあ、何をする?



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2011年5月13日

さびしい魂

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「ああ、さびしいなあ。」と思わずつぶやいてしまう。

しかし、それもまた生きるということだ。いつだって寂しい。いつだって悲しい。けれど、生きる中には喜びもあり、笑いもある。とはいえ、人生の根底にあるのはやはり孤独で、生きることは寂しく、悲しい。だけれども、それをふくめてなお、すべてが楽しいものでもある。



朝方に見た夢を何度も思い返している。明け方の空に浮かぶ大きな満月。その月は、現実にはありえないほどの大きさで、灰色がかった薄青い雲のベールに覆われていた。まるで、美しい薄絹をかぶせたかのような、神秘的なその姿。そして、月の傍には金星と木星が煌々と輝いていた。やがて東の空が白んできて、まばゆい太陽が昇り出す。

夢の中の私は、一人でただ一心に空を見上げ、月の大きさと神秘的な美しさにひたすら驚いていた。黙って一人、ただただ、その不思議な光景を見つめていた。それは、まるで御伽噺の中のような幻想的な風景だった。とても静かな夢だったと、今になって思う。



今夜はビル・エヴァンスに帰る。15歳で出会って以来、これまでで最も多く、長く、聴いてきた音楽だ。私の大切な心の音楽。

美しいピアノの音色に耳を傾けていると、不意に昔の自分が蘇ってきた。そういえば、15歳の時も、一人で寂しさを抱きかかえ、時に孤独を持て余しながら、音楽ばかり聴いていたなと思い出す。


人生の荒波に少しは揉まれ、随分と生きやすくなったし、 孤独をやりすごす術も多少は身についた。けれど、根底は何も変わっていないなと思う。今でもやっぱり、私は寂しい人間だ。


一人でいるのが寂しいのではなく、誰かがいないから寂しいのでもなく、生きることはとても寂しいと思う。



何も変わっていない。けれど、それでいい。めまぐるしいほどに変わり続けながら、同時に、変わらぬ何かであり続ける。変わるものと、変わらぬものは、いつも同時に同じくある。


この寂しさを、生きる醍醐味として、喜び甘んじて生きていこう。









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2010年12月13日

感情は、肉体が生むのではなかろうか

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ここ数日の腰痛から、感情ストレスと腰痛との関連性を考え、そこから腸の冷えと腰痛や肩凝り、筋肉疲労、骨の在り方との関連、ひいては腸と感情の結び付きを考えている。また、骨盤の左右のズレや開閉の在り方についても。

悩みがあるから感情から解放されないのではなく、解放できない感情が悩みを困難にするのかもしれない。物事に身体が反応して感情が生まれ、感情が悩みを生むのかもしれない。はじめに感情があり、それを思考が論理化するのではなかろうか。内臓や筋肉が先で、脳が後という可能性。




唐突に頭の中で流れ始めたのは「Ain't No Sunshine」。
Bill Withersではなく、Jose Felicianoが歌うこの曲。





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2010年11月26日

干からびてみて気づくこと

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渇望すればするほどに渇き、何を求めているのか分からないままにひたすら求めては、際限なく渇き続けるという苦しみ。ならばいっそ、静かに黙して干からびてしまえば、ここにあることの真実が見つかるのかもしれない。

そこを見れば苦しい。苦しいのに、そこばかり見てしまう。しがみ付き、執着してしまう。苦しい苦しいとのた打ち回りながら、そこから逃れられないことの繰返し。けれど、僅かに視点をずらしてみれば、今ここに既に喜びはいくらでもあり、いつだって自ら安心できるということを、本当は知っている。それだけのこと。


何かに執着するということは、自身の内で、時が止まってしまうことに似ている。時は一刻たりとも留まることなく流れているというのに、何事かに執着して自分の時が止まってしまっていては、今を生きることなどできない。今を生きねば、いつを生きる?生きるべきは、いつだって今だ。


なにごともすべては変化する。何かをそのままでとどめておくことなど、決してできないのだ。それは時を止めることと同じ。時を止めることなど、誰にもできない。しがみ付き、執着しても、その対象は時とともに変化している。ならば、自らもそれと共に変化するしかない。それが、明け渡すということだ。



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2010年11月24日

感情の海に沈んで

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どんなに激しく荒れ狂う海も、やがては凪いで静まっていく。感情もそれと同じで、そのエネルギーはまるで波のように寄せては返し、決して同じところに留まることはない。大きくうねる感情の波を抑えることはできないが、もしその波にのみこまれたとて、やがては必ず凪いだ水面に浮かび上がることができる。

波にのまれては激しく溺れ、海底へと引き摺り下ろされることもあれど、抗うのをやめて身を任せていると、いつの間にやら浮かび上がり、また静かに水面を漂っている自分に気づく。大きな波への恐怖心を捨て去ることはできないけれど、何度のみこまれようともまた生きていける、それだけは分かっている。


昨夜の時化は唐突で、突如迫ってきた激しい波に抗うことなどできず、ただ身を任せてのまれるしかなかった。何も考える暇もなく、波に身を投げ出して心は溺れ、やがて沈んでいった。とにかく眠ろうと、身体も静かに沈ませた。

目覚めてみればいつの間にか朝がきていて、知らないうちに陸に打ち上げられていた。疲労と消耗を引きずりながらも、心はとても静かで、 辺りもまた静寂に満ちていた。それは虚無とも超越とも異なる静けさで、あきらめるでもなく満たされるでもなく、ただただじっと静かだった。

波にのまれ、巻き込まれ、抗いようなく沈められていくあの表現しがたい苦しみと悲しみが、まるで夢だったかのような静けさで、心がすっかり脱力していた。しんと静かにたたずむただの心。水面もまた静かで、ささやかなさざなみすら見られない。なんだかとても不思議な心地だった。


唐突な大波ではあったけれど、その少し前から既に心はずっと不安定に揺られていた。時に高波の波頭へのぼり、また時には激しく水面に打ちつけられ、ゆらゆらぐらぐらと揺らぎ続けていた。嵐は突然でありながら、実のところ、それは時を正しくしてやってくるのだ。


明け渡すということは、想いを断念することではない。身を投げ出すということは、捨て鉢に自らを放り出すことではない。あきらめるのではなく、諦めるということ、つまり、明らかに見るということだ。そして、愛とは決して激しくうねる炎のようなものではなく、どこまでも静かに満ちているもの。

世界のすべてが眩しく輝くような高揚ではなく、激しく身を焦がすほどの情熱でもなく、愛はただただ静かに、ここにあることのすべてに満ちている。しんと静まりかえったさざなみ一つ見当らない水面の奥深く、黙する泉は静かに静かに沸き続けているのだろう。




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2010年10月 8日

人の心に自分を見る

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自分の内にある悪や弱さを見つめうる力。それに裏打ちされた理解と寛容と厳しさ。そんなことをぼんやりと考えていた。


人の行動の中、そして人の心の内に見る、弱さ、脆さ、悪しきもの。それらはみな、自分の内に存在しているそれと同じである。それらを他人事として断じ、批判し、否定するだけに終わることは、自らの弱さや脆さに蓋をし、見ぬ振りをして己を騙して逃げることでもある。


善のみの人間、善のみの世界など、存在し得ないのだろうと思う。しかし、独善ではない善とは何かを考え、善を求め、そのために行動し、互いに働きかけ、共に協力し、力を尽くしていくことが大切なのだろう。


そのために必要なのは、他人の内に見る弱さや脆さを他人事で終わらせず、自らのこととして受け止める姿勢をもち、自分の内にあるそれらをじっと見つめ、そのことを受け入れる純粋さなのだと思う。


ともすればすぐに批判したがり断じたがる自分がいることを思い出し、攻撃されれば過剰に防衛したくなり、独善的に陥りやすくなる、そんな自らの弱さをかえりみて、改めてそのことを心に刻みなおす。人の心と自分の心は、どこか必ず似ているものなのだから。




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2010年7月16日

心と心が交わるとき

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ただ素直に、心と心で、人と出会い、人と交わるということは、それだけでなんとありがたく、なんと尊くて、なんと幸せなことだろう。

そんなことを思える機会が続いている。そして、そんなことを思う自分に驚いている。

真面目に、謙虚に、地道に、それぞれの道を必死に生きている。そんな人々の言葉や佇まいには、必ずその姿勢が滲み出ている。紡がれる言葉と言葉の間に、その精神の実直さが現れている。ささやかな表情の一片に、その心の美しさが見て取れる。

人と出会い、人と交わり、人と心を交わすということは、ただ目の前に在るその人の表面をなぞることではなく、その存在が内包する物語に触れるということだ。

決して文字としては表れない、表立って見えることのない、その人という命の物語。そして、そこに含まれる、その人のこれまでの歩み、思い、祈りと表現。それは、その人の魂のコードへと導いてくれる物語だ。


あなたの命が醸す色、あなたの魂が奏でる音から、私は「共に生きよう」という声なき声を聴き、深い勇気と希望をいただいている。ありがとう。





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