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2015年8月の記事

2015年8月31日

Palermo

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イタリアはシチリア島、パレルモのイメージを追いかけて、香りをブレンドしてみた。青い空と碧い海、燦々と降り注ぐ太陽、輝くレモンの果実、鮮やかに咲き誇る花々、乾いた風が運ぶ潮の匂い、強いコントラストを描く石造りの街並み、大聖堂に染み込んだ幾重もの祈り、そして脈々と続く生の営み。


シチリアの火と土と風と水。複雑に絡み合う様々な要素、バラバラに見える香りの記号を、一つの物語にまとめていくという作業。


ムエットに染み込ませた香りの変化が予想を超えていて少し驚く。柑橘系の鮮やかな色彩が弾けた直後、青を含む爽やかな風が吹き抜け、そうして様々な花の香りがふわりと開花する。これまでは練り香にすることが多かったけれど、この香りはスプレーにしよう。


香りをブレンドしていつも思うのは、光だけでは物語は作れないということだ。明るい香り、軽い香り、華やかな香り、甘い香りだけでは陰翳は作り出せず、暗い香り、重い香り、苦い香り、渋い香りを組み込んでいくことで、光と影、変化する色調、重なり流れる時、奥行きのある物語が生まれていく。


人生も、人も、音楽や踊りや芸術表現だって同じこと。数多の側面、いくつもの色、様々な音が、複雑に絡み合って一つの物語を形成している。それは、始まってはやがて終わりゆく変化しつづけるハーモニー。


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2015年8月30日

エネルギーを活かす生き方

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言葉も、声も、無自覚にただ漏らし続けることはエネルギーの消費でしかなく、それは、自分の暇や空白から目を逸らし、自らを活かして生きるという責任から逃れるための行為でしかない。そしてまたそれは、真に与える行為ではなく、結果的には時やエネルギーを奪う行為でもある。


さまざまな場面で「無駄なおしゃべりは辞めなさい」と言われる意味が今はよくわかる。それは「不要な思考を生み出さない、エネルギーを無駄遣いしない」ということでもある。沈黙し、静かに集中して、目の前の体験、仕事に専念することのなんと快適なことか。


声も、言葉も、エネルギーの形であり、それは、自分を取り囲む世界、自分が見ている世界へと反映されていく。発する言葉がその人を作り、発する声が取り囲む世界を作る。


そう考えてみれば、言葉も声も必要のない無駄遣いはできないし、それらが本質の宿る美しいものであるよう、いつも自らを整えていたい。そのためには何よりも、いつも自身の空白にくつろぎ、静寂に安心していることだ。



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2015年8月29日

現実は意識の影

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「物質は存在(意識)の影」という友人の言葉に膝を打つ。


そうなのだ。形(現実)をどうにかしようと取り組むのではなく、瞬時にいかようにも変化する意識から取り組むのが、楽に、楽しく生きるコツで。いつも望みは既に目の前に叶っているのだから、それがなにかしら違うならば、意識を変化させてみればいい。


ココ・シャネルは「実際にどう生きたかということは大した問題ではない。 大切なのはどんな人生を夢見たかということだ。」 というようなことを言っているが、夢を見ることがなぜ大切なのかといえば、夢を今ここに味わい、今ここにその感覚、気分、状態を生きることで、現実という影は自然についてくるからだ。


ワクワクしていれば、世界にワクワクが響き渡って、ますますワクワクが訪れるし、喜んでいれば、世界に喜びが伝わり広がって、ますます喜びがやってくる。現実という影が意識についてくるということは、いつでも、内から放つものが外に映され、めぐりめぐって(しかもどんどん増して)還ってくるのと同じこと。


これから深夜に魚座の満月。木星と海王星も伴って、なんともファンタジックな配置。夢と現、あの世とこの世、あちらとこちらの境界も、ふわりと滲んで溶け消えそうだ。

静かに凪いだ海に映える、まあるいやわらかな月を描いてみようか。
音もなく降り注ぐ月のしずくと、きらきらゆらめく水面の月光。
いずれの光も美しい。



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創造について

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作品であれ、言葉であれ、生み出された形というのは、その構造やバランスなど目に見える面、触れられる面だけでなく、そこに注がれたエネルギー、そこに宿された魂とも呼ばれる形無き何かをも顕わにする。出される音、話される声だってそうで、声は、発声主のあらゆる波動を如実に現すものだ。


たとえ体裁を整えたとて、そこに嘘があれば、形はカタチを超えてその嘘を現してしまう。どれだけ丁寧に取り繕ったとしても自分を欺けないのと同じぐらい、実のところ、宇宙や世界を騙すこともできないということだ。


わかっていないようでわかっているし、伝わらないようで伝わっている。


あらゆるレベルにおいて、創造とは、注がれるものと受け止めるものとの共振と融合によって起こる。奉げられ、注ぎ込まれたエネルギーに、相応しい器が与えられ、そうして、ある形として現実世界に生み出される。


より善い器、より美しい形を求めるならば、エネルギーという水の源である自らの内側を変える必要があり、注ぎこむ水の純度を確かめる必要があるというわけだ。



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相応しいもの、美しいこと

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相応であるかどうかという基準は他者から与えられるものではなく、自身の内にあるものだ。それが自分に相応しいか、自分はそれに相応しいかは、いつでもほんとうは無意識にわかっていて、弁明も説得も必要としない。


いつだって、自分が納得していることだ。そして、自分だけは決して欺けないということでもある。たとえ気づかぬふりを続けていたとしても。


ほんとうに相応しいものというのは、思考を超え、判断を超えて、無条件に沸き起こる喜びと快適が教えてくれる。


何かに心を動かされるということは、そこに宿るエネルギーと響きあう何かが自分の内にもあるということだ。外側はいつだって内側を映し出し、内側は外側によって発掘され、発見される。


美しいものとの出逢いはいつも、自らの内に静かに潜む、その美に共鳴する何かがあることを教えてくれる。世界の美しさに気づくほどに、自らの内なる美もますます発掘され、磨かれていく。そうして、形無き美しさは、美しい形と共鳴していく。


「美しい」とは、そういうことだろう。



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2015年8月27日

相互贈与の循環を

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その仕事が好きだったり、何かしら楽しめるのであればいいのだが、お金を得るためだけに我慢をして、頑張って働くという方法は、ある意味、自分の時間=命を換金することで、喜びや満足が得られないだけでなく、自分を摩耗してしまう。そうして、自分で自分の価値を見失うサイクルに陥ってしまう。


そうなると、頑張れば頑張るほどに自らの価値を下げ続けてしまうのだ。それも、気づかぬうちに。忍耐し、我慢し、頑張って得たもの(金銭)は、源に喜びがなく満たされないが故に後には残らず、また、自己価値を下げ続けてしまうが故に、得られるもの(金銭)も減少していくというスパイラルを生む。


しかし、その頑張りは誰かから強要されたものではなく、自らの思い込みがそうさせている。だから「おかしいな?」と思った時には立ち止まってみるのがいい。心身の不調もまた一つのサインだ。たとえば「どうしても仕事に行けない」ならば、それは「もう、この働き方は限界です」というサインかもしれない。


無自覚なまま自分を切り売りし、本望ではない頑張り故に自らを値下げし続けるスパイラルは、仕事においてのみならず、人との関係等そこかしこに起き得るものだ。勿論、気づいて抜け出す選択もあれば、それでもそこに留まるという選択もあるけれど。個人的には、使役と賃金による交換ではなく、喜びや感謝による相互贈与の循環を増やしていきたい。



何事においても、自覚的にせよ無自覚にせよ、放ったものがめぐりめぐって還ってくるということだ。忍耐と我慢による頑張りは、更なるそれらをもたらすし、わたしがどこかで無理をすれば、宇宙のどこかに無理を生じさせる。喜び、安らぎ、嬉しさ、楽しみ、受け取りたければ、それらを放つことだ。


純粋なる喜びによる表現と創造は、それが形あるものであれ、形なきものであれ、売買によって交換されるものではなく、贈与によってより広く分かちあわれるものだ。労働もまた同じくだろう。


そして、ほんとうに取り掛かるべき仕事というのは、いつだってすぐ目の前にある。ただ、それに気づくか、気づかないか、だけの違いなのだ。


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2015年8月24日

dreaming, imaging

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どんな意識を表現するか。
どんなヴィジョンを生み出すか。
どんな波長を与えるか。
どんなエネルギーを循環させるか。


自らの内に。
自らの外に。
この世界に。
この宇宙に。


それが未来を創っていく。
自らの未来だけでなく、周囲の未来、子孫の未来、地球の未来へと響いていく。
共鳴していく。


喜びと安らぎに満ちた美しい未来を描くこと。
無理をせず、頑張らず、正直に、素直に、生きること。
いつも、いつでも、自らの平和に安らぐこと。


それはまた、いつでも今を祝福すること。



"A dream you dream alone is only a dream. A dream you dream together is reality." ー Yoko Ono


"Everything you can imagine is real." ー Pablo Picasso



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暇という贅沢

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人生が死ぬまでの暇つぶしであるならば、他者の暇つぶしに参加したり、巻き込まれたり、荷担したり、はたまたそれらを判断したり、批判したりする「暇」などなくて、自らの暇に専念し、その退屈の中からこそ生まれる衝動を待つこと、自らの暇を浪費することこそが、本質へと導いてくれるのではなかろうか。


不安を紛らわせるための生産ではなく、意味を成さなければという脅迫的観念による仕事でもなく、どうしようもない退屈、無制限の暇の真っ只中で、否応なく「してしまうこと」を招きだすこと。ゼロに手放しで漂い、自らの暇を消費せずに、浪費すること。


それはもしや、最高の贅沢なのではなかろうか?


無理に埋めようとしないこと。頑なに握らないこと。半端に妥協しないこと。いちいち判断しないこと。思考に留まらないこと。あらゆる可能性を迎え入れること。いつでも最高を求めること。そうして、真に期待すること。


やっぱり、優雅で美しいのがいい。
そうして、喜びに基づくのがいい。


意味は見いだすものではなく、自ずと与えられるもの。後から気づけば受け取っているもの。だから、外側に氾濫する無数の「意味」にとらわれず、意味を成さないところから生まれ出るものを待つこと、迎えることだ。


正しいかどうかではなく、美しいかどうかでいい。
貴重な友との対話の後、そんなことを確認した今日の早朝。


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2015年8月22日

暇を何かで埋めるなかれ

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人生は死ぬまでの暇つぶし・・・なんて言うけれど、仕事や労働だけでなく、遊びも、道楽も、悲喜交々あらゆるドラマも、悩むことですら、「何かをする」のは「何もしないと退屈だから」なのかもしれない。


どんな大義名分も、様々な理由や、使命や役目というようなものも、実は思い込みでしかなくて、しかし、勿論それが楽しいならばそうするのがいいというだけのことだろう。


退屈するのが怖いから、次々とドラマを作り出したり、外側に理由を探したり、暇でいることに耐えられないから、人のドラマに参加したり、外側に役目を求めたり。多くの営みがそうなのではないかと、自らを振り返ってもそう思う。
しかし、暇も、退屈も、心身を奉げてどっぷり浸かってみれば、見えてくるものがあるのではなかろうか。


実際、こうして何かしら書いているのだって、「暇だから」に過ぎない。書きたくて書いているだけのことだ。暇と退屈は余白であり、生きることはいつだってすべてがゼロという余白で、それを何かで埋めるのではなく、その只中からこそ生じる衝動や欲求こそが、本当にしたいことを教えてくれるのではないか。


・・・と、書いているうちにそんなところに辿り着いたので、友人から借りたままの國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」を、そろそろ読みはじめることにしよう。




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2015年8月20日

わたしの風通し

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たとえばちょっとしたトラブルも、その出来事が伝えようとするメッセージに静かに耳を傾けてみれば、浮かび上がってくるのは他の誰でもないわたし自身からの知らせであり、そうして頑張ることを辞めて、そっと手を放してみれば、感謝とともに物事はほどけて、新たな発見と新しい展開がもたらされる。


いつだって、あらゆる経験は発見を伴い、新しい視野をもたらして、新たな展開へと導いてくれる。あらゆる出来事の中に、宇宙からの、世界からの、わたし自身からの知らせがあり、それに気づいては次の経験へと移り変わっていく。だから、いつでも、新しい経験が入り込む余白を残しておくのがいい。


『道を開けなさい。風のために。』というオノ・ヨーコさんの言葉をよく思い出す。


いつでも新しい風を迎え入れるために、空白を置いておくのがいい。空間にも、時間にも、関係にも、意識にも。


「わたし」にいつも静かな空白をたっぷりと残しておくこと。



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2015年8月19日

体の声はわたしの声

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体が訴えるあらゆる痛みは、体(わたし)からわたしに投げかけられる怒りであり、それは、外側にばかり意識を向けてきたこと、つまり、いつも内側(わたし)を後回しにしてきたことに対する、「もっとわたしを愛して!」という痛烈なメッセージだ。


痛みだけでなく、様々な病も含めて、身体に現れるあらゆる症状、あらゆる不快は、肉体(わたし)からわたしに向けられたメッセージであり、それらはすべて「何かや誰かではなく、わたしを一番に見て、受け入れて、肯定して!」という訴えではなかろうか。


これまで体験したことのないレベルの歯痛を味わい、数年ぶりの歯科治療を受けてみて、そんなことを改めて思う。


そして、だからこそ、誰かや何かに助けてもらうのではなく、わたしがわたしに気づき、助けなければならないということ。どんなに優れた医療や治療法があろうと、どんなに素晴らしい専門家に出逢おうと、わたしがわたしを受け入れ、寄り添わなければ、本当の治癒には至れないということ。



歯痛を含む不調が続いた時期、自分の中に「申し訳ない」という罪悪感があることを認識した。それに気付いたときに、ふと「誰に、何に対して、申し訳なさを感じているのか?」と不思議に思った。そして、無自覚に重ね続けてきた、自分を後回しにするパターンに気づかされた次第だ。


ごめんね、わたし。
もう決して後回しにはしないよ。


いつだって、わたしこそがわたしの一番の理解者であり、わたしこそがあらゆる現実を創りだす源、そして、すべての夢を実現してくれるのもまた、このわたしなのだから。そして体とは、「わたし」という神の宿る神殿なのだから。



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2015年8月18日

働きたいから働くということ

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ほんとうは、お金や名誉や保障など「何か」を得るために働くのではなく、働きたいから働くことだ。純粋に自らを投じるほどに、必要はますます与えられ、より相応しいものがめぐってくる。そうして、ますます豊かに自らを表現し、より楽しめるようになっていく。


真の意味での労働とは、義務的な使役や苦行ではなく、喜びを伴う純粋なる行為を指すのだろう。自らを惜しまずに表現し、喜びとともに奉げるほど、より豊かに与えられ、循環の輪は広がっていく。


愛もまた同じこと。愛されるために愛するのではなく、愛したいから愛している。そして、ほんとうのほんとうは、愛するがゆえに、ただ愛しているだけのこと。



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2015年8月17日

他者の経験を奪わないこと

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みなそれぞれに、それぞれのタイミングで、必要な経験を通過している。「失敗の機会」などと言うけれど、本人が必要で(つまりは、どんなに嫌なことであっても、無意識下ではそれを望んで)得ている経験を、不必要に心配したり、むやみに肩代わりをしたりすることは、その人から経験を奪うことであり、発見や気づきの機会を奪うことでもある。


ほんとうの意味において失敗などはないけれど、例えば、うまくいかないからこそ違う方法を発見したり、思うように進めないからこそ他の可能性に気づいたりする。苦い思いをすることで、自らの内側にある窮屈なパターンに気づいたり、痛い目にあうことで、よりよい表現に気づいたりする。すべてがそれぞれの経験であり、必要なプロセスだと言える。

失敗しないようにと先回りをして手を差し伸べるのは、必ずしもいいことではなく、他者のプロセスへの過度の介入は、人の経験と機会を奪うことにもなりかねない。もちろん、助けを求められた時には、惜しみなく与えればいいし、介入を求められれば、遠慮なく応じればいい。


それぞれの経験を尊重することは、相手を、自分を、信頼するということだ。
信頼し、静かに見守るというレッスンもあるということ。


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2015年8月16日

極楽浄土

早起きをして極楽浄土へ。
甘く清らかな蓮の花の香りにうっとりと夢見心地。


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2015年8月15日

beauty

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美はあらゆる基準となる。


美は調和。
美は喜び。


美しいことは快適であること。
美しいことは心地よいこと。


それが美しいかどうかだけでなく、それに触れる自分が、そこに生じる我が、そこに現われる自己が、そして自らの行為が、言葉が、意識が、波長が、美しいかどうか。


美は外からやってくるものではなく、いつでも内からはじまり響きあうものだ。世界のあらゆる美しさは、わたし(あなた)の内なる美を映し出している。


美しい花を見てはっと驚くのは、自らの内なる美を発見することと同じであり、美しい空を見てふとほどけるのは、自らの内なる美に安らぐことと同じだ。


わたし(あなた)の内なる美しさが花開くほどに、喜びもまた内から湧いて広がりゆき、それは祝福となって外の世界へと溢れ出していく。そうして世界はますます美しくなっていく。




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2015年8月12日

inner crystal

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洗って、落として、手放して。
飾らず、重ねず、隠さずに。


理由も、言い訳も、説明も要らない、ひたすら純粋な素の輝き。
すべての人の最奥にある、どこまでも透き通る美しい水晶。



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石とともに

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ふとしたことをきっかけに、長らく棚に飾ったままだったユーディアライトを取り出してみた。もう7~8年前だろうか、代々木上原のELDNACSで出逢ったMARKROCKSさんのところから、わたしの元へとやってきた美しき紅い石。


石は人を渡って旅をしている。それは時空を超える悠久の旅だ。


ちょうど掌にすっぽりとおさまるサイズの、楕円にシェイプされたユーディアライト。深くて鮮やかなその色はダークチェリーを思わせる。産地の一つであるロシアのコラ半島には、昔々の祖先の時代、外敵からの侵略をうけたときに民族を守るため戦った勇敢な戦士の血がこの石になった・・・という伝説があるという。


鉱物を掌におさめているとなぜか落ち着いて、体も意識も静かに安らいでいく。そうして少し温まった石を、お腹や、胸や、手首足首にそっと置くのも気持ちいい。ひんやりとした水晶を額や喉に当てるのもまた心地いい。眺めて楽しむだけでなく、言葉を超えた交流と循環を楽しめるのがいい。


地球の欠片である鉱物は、肉体もまた同じものであることを教えてくれる。それぞれに完璧で、完全で、それぞれに美しく、そして、組成や成分は分析されてはいても、実際のそれが創られる過程は地球の業であり、宇宙の神秘であるということ。どこまでもシンプルな中に、測り知れない宇宙のすべてがあるということ。


水晶は、鉱物は、知識を超える知恵、知恵を超える叡智、言語を超える言葉を与えてくれる。それは、あらゆる形を超える教え。「わかる」を超えて巡りあい、循環しては、融合する。


もちろん、美しい石や宝石をただうっとり眺めているだけで十分に幸せだけれどね。


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2015年8月 8日

"Follow your bliss"

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小さな違和感、ささやかなひっかかりを、軽んじず、無視せず、捻じ伏せず、ひとつひとつ丁寧に掬い上げること。内側からの繊細な響きに敏感であること。内側が発するささやかな声に耳を傾け、それらに素直であること。


わたし(あなた)の快適と幸せの秘訣は、他の誰でもないわたし(あなた)自身が最もよくわかっている。


頑張らなければ続かないことは、そもそも必要のないことかもしれない。通ぎ去る間を忍耐しなければならないことなど何一つない。我慢するより、頑張るより、素直であること。


外に求めるものは何もなく、いつも内から響きあっている。



"Follow your bliss and the universe will open doors where there were only walls."
大好きなJoseph Campbellの言葉を思い出す。





透明な、透明な、美しい音。
鎮まる、静まる、帰る、還る。




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2015年8月 6日

調和と循環

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エネルギーを与えるとか、いただくとか言うけれど、実際には授受するというよりも、波動と波動が出逢った瞬間、自動的になにかしらの変容が起きるように感じている。


出逢うだけで場が生まれ、そこに化学反応のような、錬金術のような、そういった変化が自然発生するのではないか、そして、それを(無意識的に)求める同志が引き寄せあうのではなかろうか。人と人だけでなく、人とモノも、人と場所も、カタチあるものも、ないものも。


存在しているという調和。


自己との調和はそのまま世界との調和であり、我という快適に安心することは、世界を、宇宙を、信頼し、委ねることだ。そうしてただ素直に表現すれば、エネルギーは自ずと響きあい、循環されて、めぐっていく。


めぐりによって、もたらされ、活かされ、響いて、生かされていく。


そんな感じ。


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2015年8月 4日

誰もが運び手

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言葉、モノ、お金もそう、あらゆるカタチ、あらゆる姿で、エネルギーはとめどなくめぐっていて、誰かから誰かへ、どこかからどこかへと、流れつづけ、渡りつづける。誰を通ってやってくるかも、どこを通って流れていくかも、実は意味も理由もなくて。与えられるものをどのように受け取り、溢れ出すものをどのように送り出すか、ただただそれだけのことなのだ


受け取るほどに与えられ、そうして豊かに流れていく。


やってくるエネルギーを祝福し、明け渡すエネルギーに喜びを載せる。さまざまに形を変えてめぐり続けるエネルギーに、惜しみない感謝と喜びを。そして、美しい祝福を。


あなたも、わたしも、すべての存在は、やってきては流れていく無限大のエネルギーを通す筒のようなものかもしれない。あなたも、わたしも、誰もがみな、エネルギーの運び手なのかもしれない。


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2015年8月 3日

天使の声は

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誰かを通してやっくてる言葉は、わたしの内側が投げかける言葉であり、それはまた、天使や精霊と呼ばれる何かの声でもある。

わたしを通って出ていく言葉は、誰かの内側に響く言葉でもあり、それはまた、天使や精霊と呼ばれる何かの声でもある。


いつも、いつでも、あらゆる存在を通して、宇宙は語りかけている。
天使はいつでもそばにいて、あらゆる形で語りかけ、様々に助けの手を差し伸べている。天使は架空の存在ではなく、たとえばそれは、まだ気づいていないだけの好意かもしれないし、ただ見えていないだけの優しさかもしれない。


静かに自分に還ることで、天使の声は聴こえてくる。
内なる声、体の声もまた天使の囁き。


さあ、その声はなんて言っている?


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2015年8月 1日

超えていくもの

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物理的な隔たりを超え、物質的な分離を超えて、こころはいつもどこかで溶けあう。時を超え、距離を超えて、エネルギーは響きあう。


人と人というのは時に、距離を隔てるほどにより広く、豊かに繋がるものだ。


近くにあること、目の前のものだけがすべてではない。
そしてまた人は往々にして、近いものや目の前のことに惑わされやすい。


近くは遠く、遠くは近い。


そうして、やがてはどこかで共振するもの。
どこかで一つに還るもの。


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