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2015年6月の記事

2015年6月30日

beautiful world

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何か美しいものを見つけたならば、それは、あなたの内側の美しさを映している。誰か素晴らしい人を見つけたなら、それは、あなたの内側の素晴らしさを映している。何か喜ばしいことを見つけたなら、それは、あなたの内側の喜ばしさを映している。


世界に発見する豊かさはそのまま、あなたの内側の豊かさだ。
世界はいつでも素晴らしく、おなじだけ、すべてのあなたは素晴らしい。



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2015年6月29日

ほどけて、ひらいて

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今日も様々な対話の中で、いくつもの宇宙がほどけ、いくつもの宇宙がひらいた。あなたはわたしで、わたしはあなたで、宇宙と宇宙はいつも響きあっている。


たくさんの恵みと、たくさんのめぐり。
やってきたもの、流れていくもの。
素晴らしいギフトをありがとう。


自らに愛を、人に愛を、そして世界に喜びと祝福を。



言葉を超えて、伝わるよ。
形を超えて、響きあうよ。
分離を超えて、融けあうよ。


あなたとわたし、わたしはあなた。
わたしと世界、世界はわたし。
あなたと宇宙、宇宙はあなた。



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2015年6月26日

invocation

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invocation...
incantation.....


招きよせることは、呼び覚ますこと。
受け入れることは、解放すること。


相変わらず、ギリシャ神話のアフロディーテを思い続けている。
このGustave Moreauの水彩画が、とても好きだ。



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2015年6月24日

神々の祝福を香りにするなら

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ご依頼を受けてお話を伺い、今のその方のための香りを少しずつ創ってきたけれど、次は、ご縁のあるすべての方に心地よく作用する香りを創っている。自分と自分を繋ぐ香り、内なる宇宙をスムースに開かせる香り、外と内をほどく香りを創っている。


愛と祈りと祝福と。
天使とディーヴァと女神の香り。


香りの創作だけでなく、タロットリーディング&ビジョンリーディングのセッションも引き続き継続している。カードは無意識へのゲートであり、あなたを映し出す鏡のようなツール。あなたとわたしとが響きあいながら、安心の中で循環をほどいて、エネルギーを解放する。本音をひもとき、夢を開かせる・・・そういう共鳴と変容の時と場。


「タロットカードって不思議ですね!」とよく言われるが、カードは本当に見事なほど、ご相談者様の内側(に既にある答えや選択)を映し出す。カードも、わたしも、ご相談者様の映し鏡。映ったものをともに見つめながら、思考を整理し、思いこみや観念をほどいて、内なる真実を明らかにするお手伝い・・・ができれば思っている。




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2015年6月23日

呼吸するように

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不足を感じるとき、実は過剰に余っている。エネルギーも同じで、枯渇したように感じる時は、蓄積されすぎて停滞している。何のためにならなくても、むしろ無意味に、とにかく好きなことに少しずつでも注いでみれば、巡りが変わって流れ出す。出せばますます湧いてきて、外からもどんどん入ってくる。


入ってくるのを待つのではなく、出すことによって自然と入る。
入ってくるだけを使うのではなく、出せば出すほど入ってくる。


あらゆるエネルギーの循環は、呼吸と同じようなものだ。



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素直に、正直に

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理解してもらおうと言葉や労力を重ねなければならないなら、それはもうズレているということで、伝わるときには言葉などするりと超えて自然と伝わるものだ。自分の内側が納得していて円滑ならば、わかってもらう必要はなくなり、そしてまた、あらゆる違和をただ「そうである」と眺めることができるもの。


説得し、理解してもらうために費やしているエネルギーを、むしろ熱中できること、楽しいこと、嬉しいこと、わくわくすることに絞って注ぐ方が、宇宙はよりスムースに広がり、エネルギーはより速やかに伝播して共振する。説得したい他者も、理解してもらいたい他者も、やっぱりすべては自分の内側の反映なのだ。



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2015年6月22日

アフロディーテーを思う

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Alexandre Cabanel「The Birth of Venus」


ギリシャ神話のアふロディーテーに思いを馳せながら歩いた帰り道。不意に「リュミエール」という言葉が浮かんだ。そういえば、今日は夏至。一年で最も太陽が高く昇る日だった。光と熱を惜しみなく与えてくれる太陽のエネルギーが、最もパワーを放つ日かもしれない。きっと今日の陽光は、心身のあらゆる不要や澱を燃やし尽くし、昇華してくれたことだろう。

燃やされ灰になったならば、すべては祝福のうちに混沌へと還元されゆき、やがてまた新たな形を得て、更なるギフトとしてやってくる。


そうしてふとまた、アふロディーテーを思う。この女神は、クロノスによって切り落とされた挙句、海へと投げ込まれたウラノスの男根より湧きあがった泡の中より生まれたのだという。男性の生殖器から、愛と美を司る女神が生まれるという生死と性の円環。


さて、今夜は一年で最も短い夜。重なる雲のせいか、夜空はほんのり赤が混じって紫のニュアンス。ふっくらと奥行きを感じる深青紫に、ぼんやり浮かんだ六日月もまた、微かに赤みを帯びている。


日の光に燃やされた身を、やわらかな月の光が優しく照らす。そのすぐ近くには、金星と木星が輝いているはずだ。


ふと、ギリシャ神話の女神アプロディーテーは、金星と結びつけられていることを思い出す。つらつらと宛のない想像の旅は、聖マリアを讃えるイヌムス「Ave Maris Stella」にたどりついた。


めでたし海の星。泡から生まれたという愛と美の女神の姿を思い描く。聖マリアとアプロディーテー、そしてヴィーナス、金星・・・果たして何が正しいか、どの説が真実なのかはわからないが、果てしなく広がるイマジネーションはただ美しい。




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2015年6月20日

なにもないところに

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なにもない、なにもない、なにもないところにすべてがあるという充足。


それはそれは静かな安堵。


無音の至福から生じる無限の喜び。


永遠なる循環。


有無を超える永久なる豊かさ。





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2015年6月19日

素直になって求めてみよう

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頑張っていることに気づいたら、切り替えのチャンスだ。頑張るほどに見えなくなり、頑張るほどに混乱し、頑張るほどに流れを堰き止めている。必死に取り組んでいることに気付いたら、力を抜いて少し目線を変えてみる。そうしてスペースを明けてみれば、新たな喜びが流れこみ、そこから別次元が拓かれていく。


自分に理屈で言い聞かせていることに気付いたら、それも切り替えのチャンスだ。その奥には正直な本音が隠れている。ほんとうは、切り捨てなければならないことなど何もなくて、本音にどこまでも正直になってみれば、あれもこれも全部乗せの宇宙が拓く。素直に全部求めれば、宇宙はそれを用意する。


ふと頑張りから抜けたとき、取り組むことから離れたとき、ほどけて「そうか!」がやってくる。流れはいつも無限にあって、すべては更新され続ける。やってきた流れに開いてみれば、思わぬ喜びの扉が開く。そうして波に乗るように楽しんでいればいい。宇宙はいつでも新たな最善をもたらしてくれる。


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2015年6月18日

宇宙の真ん中

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肚へ肚へと還っていけば、正直にならざるを得ず、正直になるしかなく、そうしてどんどん還るごとに、すべては内から外へと響いていることを思い知る。外側に見えるあらゆる枠組みはうつろう幻でしかなくて、どれほどはずれて見えようとも、いつでもこの肚の内が宇宙の真ん中なのだ。


内から生じたエネルギーは、表現され、解放されるだけで、それにふさわしい形をもって現実として反映される。思考や観念が作る限定された枠組みを超えて、内なる宇宙は実現される。我慢や、思いこみや、否定や、制限といった障害が少ないほどに、エネルギーの広がり、つまり可能性は広がっていく。


誰しもがみな、思うがままの現実、我がままの現実を、生きている(見ている)ということだ。だから、いつでも此処が中心。心の、体の、肚の、浄化と解放は、宇宙のめぐりを変えていく。


どんなに歪んで思えても、どんなに偏って見えても、そこがいつでも中心だから、ほんとはなんでもありなのよ。そうして解放されるほどに、エネルギーはますます広がり、状態もますます快適になる。ほんとうは、なんにでもなれるのだ。すべては、更新され続けるエネルギー体のようなものなのだから。



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2015年6月16日

肚の声、体の声

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ふとしたことをきっかけに、子宮のある下腹あたり(肚)からしんしんと漏れてきたのは「寂しい、寂しかった」という声だった。そっと手を当てて「寂しかったね、ごめんね」と語りかけた。新月を前にまた、知らぬ間に抑えこんでいた感情の断捨離が起きているようだ。美しいピンクの光が降り注ぐ様を思い描き、手を通して光を体へと送った。大丈夫、もう手放していいんだ。


こうして体が発する声に気付けるようになったのは割と最近のことだ。それはそれは長い間、ほんとうの感情、つまりは本音を抑え込んで生きてきたので、わたしの体は常に緊張状態で冷え切っていた。


わたしだけでなく、割と多くの人に共通していることだと思うのが、ほんとうの感情を表現してはいけないという刷り込みだ。悲しい、寂しいといったネガティヴとされる感情は、口にしてはいけない、感じてはいけないと思いこんでいて、我慢し、堪えて、抑える癖が深く染みついていた。しかし、感じてはいけないと禁止しても、感情は肉体からやってくる自然エネルギーのようなものなので、抑えたところで出てくるものは出てくるし、生まれたものを無いものにはできない。では、どうするかといえば、思考で処理するのだ。頭で分析し、解析して、整理するというパターンを長年繰り返してきた。


頭で分析し、判断して、整理する。すると、ひとまず「わかった」ような気にはなる。しかし、肉体から沸き起こったエネルギーそのものは表現されたわけでもなければ、解放・還元されたわけでもなく、ただ「ものわかりよく」処理されただけで、ひたすら抑えられ、蓄積されることになる。

そんな抑圧を重ねる中で、わたしの体はさまざまな症状で解放を訴えていた。寂しい、悲しい、不安だ、辛い・・・という感情を抑えられ、溜めこまれ、閉ざされて、漏らすこともゆるされない体は常に緊張状態で、10代から30代前半まで見事に生理がこなかった。


それだけではない。全身がいつも無自覚なままに緊張状態なので、不眠がちだし、食も細く、自律神経はいつも乱れていて、血行が悪く、常にひどい肩こりや眩暈に悩まされ、季節に関係なく体は冷えていた。今から思えば、それほどまでにこの体は力いっぱい踏ん張って、生じてしまった感情を漏らさぬよう、溢れさせぬよう、頑張っていたのだ。


今になってみればよくわかるのだが、こうしてこの肉体をして生きていることの中に起きることはみな、いわゆる自然の摂理と呼ばれるものと同じで、感情というのもまた生じてはめぐり、やがては還元されるエネルギーであり、それは力でコントロールしなくとも、自然とやってきては流れていくものだ。


痛みをして特定の部位の不具合を知らせるように、体は不快な感情をもって、そこに感情の捻じれが起きていることを教えてくれる。封じ込められた悲しみや寂しさには大抵、怒りや恨みの蓋が乗っかっている。それは、他の誰でもない自分自身にゆるしてもらえなかった感情の捻じれなのではないかと思う。


何かによって呼び起こされる怒り、誰かに対して抱く恨みは、実のところ、肉体が持ち主に向かって発する怒りや恨みなのではなかろうか。悲しい、寂しい、といった肉体から自然派生した感情を、ゆるさず、みとめず、封じ込めた肉体の持ち主、つまりは自分から自分への怒りだ。


怒りも、恨みも、感情というのは波のようなもので、じっと感じているうちにその波形は徐々に変化していく。流れる水を無理に堰き止めると、あらぬ方向へと暴れ出てしまうように、感情というエネルギーもまた、抑えよう、閉じ込めようとするほどに捻じれが生じ、どんなに塞ごうともやがては決壊する。

感じてはいけない、表現してはいけないと抑えこんだ悲しみや寂しさが蓄積するほど、当然ながらそれを抑える力も大きくなる。素直な気持ちを我慢するほど、怒りの蓋もより強力になる。何かや誰かに対して猛烈な怒りを覚えることがあったなら、その奥には相当の悲しみが溜まっているのかもしれない。


怒りも、恨みも、そして、その奥に封じられた悲しみも、寂しさも、元はすべて生きる肉体から生じたエネルギーまたは、ゆらぎが生んだバイブレーションのようなものだ。生きている限り自然発生するもの・・・たとえばあらゆる排泄や汗などの分泌物と同じようなものなのだと思う。


怒りを怒りのままにゆるしてみれば、それはおのずとほどけていく。そうしてほどけた怒りの奥には、悲しみや寂しさが隠れていて、それを幾度も幾度も自分で抱きしめ、「感じてもいい」と自分にゆるし、溢れるままに流してきた。そんなプロセスを重ねるうちに、感情の代謝は徐々に良くなっていった。


体と意識どちらが先かはわからないが、生じた感情を素直に認めて、ゆるし、感じられるようになるにつれ、身体的な快適も増した。あんなにもひどかった肩こりや全身の緊張が見事になくなったのには本当にびっくりしたし、体温も上がり、生理周期も少しずつ回復し、不調や不快を感じることが減っていった。


感じてはいけない、漏らしてはいけない、表現してはいけないと、感情を封じて我慢している肉体はいつも緊張してるから、たとえばそれを言葉にしてはいけないと我慢していれば喉に不調が現れるだろうし、女性であればやはり子宮周りに不調が現れることが多いだろうと思う。それらはすべて、肉体からのサインだ。


そこで一つ思ったことがある。悲しみや寂しさを溜めこんでいる女性は、似たような男性を引き寄せるのではないかということだ。なぜなら外の世界はいつでも内側の反映だから。悲しみや寂しさといった本音を溜めこんだ男性か、または、ひとときの穴埋めにしかならない男性を引き寄せるのではなかろうか。または、正直になれず、悲しみや寂しさを溜めこまねばならない関係性を常に築いてしまうかもしれない。


何を隠そう、わたし自身が悲しく、寂しく、満たされぬ恋愛を繰り返してきたから、そんな風に思ったのだ。恋愛だけでなく、あらゆる場面において、なぜか不当に扱われ、寂しく、悲しく、辛い役割や立場ばかりを経験していたのは・・・自分が自分にそうしていたからだと、今となってはてよくわかる。わたし自身が、わたしの悲しみ、寂しさを認めず、ゆるさず、それを抑え込んで解放しなかったからこそ、わたしは、わたしの外側にそれを作りだして気づかせようとしていたのかもしれない。外側に現われていた現実は、子宮や肉体に対する、わたしの態度と関係そのものだったというわけだ。


もしも、何かしらうまくいかない関係に直面しているならば、それはそのまま、自分と自分との関係、自分と自分の肉体との関係を映し出している。これまで子宮と書いてきたけれど、男性であれば、おそらく肚(丹田のあたり)に同じようなことが起きているのだろう。抑えられてこじれた感情が、こじれた現実として現われるというのは、男にも女にも共通している。


だから、外側の現実に向かってどれだけ奮闘しても、内側の状態や関係が解消しなければ、同じような現実を作り続け、似たような関係や状態を繰り返すことになるというわけだ。困難、不快、不満、不足に直面した時こそ、自分の内に潜む正直な感情いわゆる本音の声を聴いてあげるといい。


そうして、そこに見つけた感情を、自らで抱きしめ、感じることをゆるしてあげることだ。怒りは怒りのままに、悲しみは悲しみのままに、ただそれとしてあっていいのだと、自分に許可すること。そして、寂しいときには寂しいと、辛いときには辛いと、言葉にしてもいいし、表現してもいいのだと許可すること。


抑えることなく解放されれば、感情というエネルギーはただそのままに流れ出していく。認めず、ゆるさず、抗い、堪えて、否定し、抑えようとするから暴れるだけのことなのだ。悲しみも、寂しさも、不安も、怒りも、恨みも、憎しみも、喜びと同じところからくる波で、その源はすべて愛なのだと思う。


感情を漏らさぬように、感じぬようにと抑えこんで緊張している肉体を、ゆるめてあげるといい。ゆるんで溢れるものならば、言葉も、涙も、そのまま流してあげればいい。物理的に風呂につかるなどして体を温め、ゆるめてあげるのもいいだろう。何もせず、ただ横になってぼんやりしながら、体の力を抜いていくのもいいかもしれない。たくさん眠ることだって、体をゆるめてくれる。


そういった意識的な取り組みを繰り返すうちに、感情の代謝は上がってくる。何かしら不快な感情を覚えるたびに「今まさにそう感じている」と認識できるようになり、そうしてそれを許可し、感じて、鮮度の高いまま解放することができるようになってくる。本当に、どんな感情もあっていいのだ。いつも、いつでも、正直でいい。


この取り組みは、頑張ってきた自分に「よく頑張ったね」と声をかけることにも似ている。そして、もうそんなに頑張らなくてもいいんだよと、休めてあげることだ。ゆるんで、溢れて、流れてみれば、溢れる感情はすべて生命活動そのものであることが見えてくる。感情はコントロールするものではなく、味わうものだと。


怒りも、悲しみも、寂しさも、感じていいとゆるせたならば、それらはやってきては去っていくただの波になる。「感じちゃだめだ」と握ることなく、手を放して委ねてみれば、すべては溢れて流れていく。そうすれば、だんだんとそこに留まらずにいられるようになる。感情を感じなくなるのではなく、感情の通過が速くなるという感じだろうか。そして、あらゆる感情をすべて判断することなく、ただ味わえるようになる。


そういえば、わたしの場合は、感情だけでなく、あらゆる認知、あらゆる感覚においても、同時に同じように変化した。ゆるめることは、ゆるすことなのだ。そして、ゆるせば、さらにゆるんでいく。常にさまざまな不調を抱えていた肉体がこんなにも快適になり、そうしたら、いつでも自身の快適へ還ることができるようになった。そうして、いつでも快適と安心に還れるからこそ、どんな感情がやってきても、それはそれでいいのだとゆるし、素直に感じることができるようになる・・・というプロセスを経てきて今がある。


感情を感じるだけでなく、それを鮮度のいいままに言葉にすることも意識的に重ねた。子宮(肚)や肉体から生まれたままの本音の言葉は、ただそのエネルギーを形にして響かせるだけで、そこには良いも悪いもなく、そして、発すれば発するほど、自らにとって快適な状況を作り出してくれる。生じたままの正直な本音、素直な感情は、そのままエネルギーとして現実に反映される。たとえそれによって相手が傷ついたり、怒ったりしたとしても、それは相手の内側に起きていることで、やっぱりそこにはそれぞれの最適と快適が作られていく。そして、案外と、本音をそのままに表現すれば、そうトラブルにはならないものなのだ。


内側の循環が快適になればなるほど、外側の現実も快適さを増していくし、自分と自分との関係が良くなるほどに、自分と世界との関係も良くなっていく。ゆるんで、ゆるして、正直に、素直に、肚のままに表現するほど、自分への信頼は深まり、安らぎは広がっていく。そういえば、悲しみや寂しさ、怒り、妬み・・・といった感情をゆるせばゆるすほど、喜びや楽しさ、ワクワクといった感情も、ますますゆるされていったように思う。なんというか、感情というエネルギーが通り抜ける筒の通りがよくなる、または広がっていく感じだろうか。ゆるめば、喜びも増していくのだ。



そうそう。今日、子宮(腹、肚)から聴こえてきた「寂しい、寂しかった」という声は、誰かや何かに対するものではなく、わたしがわたしに訴える声で、「ごめん、無視していて」と声をかけたらば、一気に涙として溢れ出していった。感情も鮮度がいいと流れるのが速い。そして、流して手放した後に残るのは、なんとも清々しい爽快なからっぽ感だ。うん、確かに、ちょっと正直になれていなかったね、と認めた。無理をしていたね、と謝った。


体が、心が、ゆるむときには、涙や汗や鼻水が出ていく。排泄だって、骨盤や筋肉がゆるむからこそ外へ出せるのだから、当たり前のことだろう。溢れる涙は流すのがいい。こぼれる言葉も出してしまうのがいい。そうしたら、エネルギーは解放され、昇華されて、還元される。



自然がそのままこの肉体に起きていて、あらゆるエネルギーはやってきては去ってゆき、生じては流れて死にゆき、そうしてまた再生しては、波や流れのようにときおり変化しながら、絶えることなく繰り返されていく。どこからかやってきては、どこへとなく還っていくもの。命、愛、まるで水ようなもの。


いつも、いつも、体は、内側の私は、わたしに最善と最適を与えようとしてくれている。
それを安心して信頼し、ただ正直に、ただただ素直にあるだけで、すべてはそれでよしなのだ。



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2015年6月14日

祝福という魔法

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「どうしたらモテるかしら?」というある女性からの問いに、「自分がうっとりできる、ときめく下着を身に着けて。持っていないなら探しに出かけてみて!」と咄嗟に答えたのは数ヶ月前のこと。


下着は女性男性ともに最も性が現れる部分に纏うもの。下着に意識を配ることは、自分の性器に、性に、体に意識を向けることになる。自分の性器と体をしっかりと見て、受け入れ、愛でて、褒めて、丁寧に大切に扱って、キレイにして、祝福してあげて!と話したのだった。


そういうワークショップやコラボレーション企画はどう?と言ってもらい、それはなかなか楽しそうだと思った今日。さあ、何ができるだろう?


ビジョン心理学の中にも「自らの性器を鏡で観察し、性器を、そして自分を受け入れる」というワークがあるという。性器に対する意識と関心はそのまま、自分自身への意識や関心につながっている。そして、性器を含む自らの体と自分との関係はそのまま、自分と他者、自分と世界との関係に現われる。


優雅な気分になれる香りと、幸せな心地になれるランジェリーは、プライベートな秘密の悦びというところで共通している。自分をうっとり喜ばせること、自分の女性を満たすこと、自らの性を受け入れ、愛でて、内なる花を開かせること。それは、密やかでありながら、とても強力な魔法となる。


香りにしても、ランジェリーにしても、服や、靴や、アクセサリーや、読むもの、聴くもの、食べるもの、触れるものにしても、いつだって自分を喜ばせることが最優先だ。誰かに褒められ、認められ、喜ばれるものを選ぶ前に、自分が心地良く、快適で、幸せで、嬉しくて、満たされるものを選ぶこと。そうして自らを祝うこと。


内から外へと花は開いていくもの。
祝福ほど強力な魔法はない。


さ、何か面白いこと考えましょうか。



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受けることも祝福すること

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宇宙が、世界が、つまりはわたしが、私に与えるものを、喜んで受けるという祝福。


受け取りながら、与えている。
宇宙はそうしてめぐっている。


くつろぎ、開き、受け入れ、喜ぶことは、それだけでもう祝福だ。



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2015年6月13日

愛すること、愛されること

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愛することへの恐れと同じぐらい、愛されることへの恐れというのもあるものだ。「愛されている」と素直に信頼すること、愛へと自らを開くことへの恐れとでも言えばいいのだろうか。
それは、やがてはその愛を失うのではという不安や、どうせ見捨てられるというあきらめなのかもしれない。もしかすると、いつかの経験やいつかの記憶が、そう思い込ませるのかもしれない。しかし、愛は決して損なわれることなどないのだ。


いつか損なわれるかもしれない、やがては失うかもしれないという恐れが、愛の受け取りを拒絶する。受け取ることを拒否すれば、与えられているはずの愛も流れ込んではこないだろう。そうして「愛されていない」「愛されない」と落胆し、絶望する。そういうパターンは、わたしだけでなく、多くの人に共通するものではなかろうか。


いつか失うのが怖いから、損なわれるのが不安だから、要らないと拒絶しては、与えられないと嘆き、絶望する。それは愛に限ったパターンではなく、お金、機会、仕事、関係、あらゆることにあてはまるだろう。言ってみれば、あらゆる物事は愛の現れであり、すべてはエネルギーの具現化なのだから、形は違えど同じことだ。


懸命に人は生き、求め、乞い、叩き、捧げる。不安ゆえのねじれに苦しみながらも、それでも愛を乞うては、愛を差し出す。そのプロセスは人ぞれぞれであり、時が満ちるタイミングもまたそれぞれなのだ。そして、懸命に生きたその愛を、宇宙はちゃんとわかっている。


生きて、生きて、絶望し、拒絶し、それでも求めていた愛は、いつも最善の時に還ってくる。そうしてまた思い出す。ほんとうは、いつでも愛されていたということを。そして、それほどまでに愛していたということを。愛の現れは無限の形をしているもので、それが愛だと気づくには、時に多くのプロセスを要する。


この宇宙のあらゆるめぐりを動かしているのは愛にほかならず、愛を愛だとわからなくしていたのは、わたしの内側のねじれであり、不安ゆえに狭まれていたまなざしだった。わたしがわたしに安らぐほどに、たくさんの愛が流れこむ。そうして愛されることをゆるすほどに、愛され、そしてまた愛していく。

ただ扉をひらくだけのこと。
しかし、それだけのことのために、幾多のプロセスを必要とすることだってあるということ。


いつでも愛されている。それはそれは深く、大きく、豊かに愛されている。能動的に捧げるだけが愛することではなくて、愛を素直に受け入れること、愛を手放しで信頼することもまた愛するということだ。誰かの、何かの、愛に気づき、愛を受け入れること、愛に自らを開くことも、愛だ。



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2015年6月12日

数字で届くメッセージ

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今日もまた、いつものブラックコーヒーの自動販売機で「5555」が揃い、もう一本当たった。最近なんだか頻度が高い。朝から嬉しいメッセージ。


変化、変容、変性の数。
確かに大きな変容を感じているここ数日。


ようやく受け取れる器になれたら、たくさんの愛がやってきて。愛されていたこと、そして、愛していたことに、時を超えて気づいている。さまざまな人から、いろんな形で、何年もの月日を超えてメッセージを受け取っている。愛はいつでも時空を超えて、時が満ちれば届くものなのだ。


ありがとう、ありがとう、わたしもほんとうに愛している。いつでも世界に愛されていて、いつでも宇宙と愛しあっている。そうして素直にめぐっているのは、なんて幸せなことだろう。安心して、手放しで、ただただ愛して、ただ愛されている。


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2015年6月11日

「Paixão」「Arena」

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EUフィルムデーズ2015で、ポルトガル映画「Paixão」「Arena」を観た帰り道のこと。


余白だらけのポルトガル映画は、普段無自覚なままに築いている(らしい)思考の枠組みを超えていて、観終えた後には異次元に移動したような不思議な感覚が残る。いつの間にかいくつもの扉を抜けて、気付けばどこでもないところにいる。


それにしても、今日は夕方の光が一段と美しい。
時がほどけ、物理的な感覚がゆらいで、とける。


あの日歩いたリスボンの街の光と影がよみがえる。
しかし、果たしてそれは、あの日の記憶なのだろうか。


此処にいながら其処にもいる。
わたしは何処にいるのだろう。








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2015年6月10日

天使のギフト

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友人と話をしていたら、まったく予想外のところから素晴らしいアイデアがやってきた。なぜか今まで思いつかなかったけれど、それはぜひとも創りたい!


これも嬉しい天使の仕業。
いつも思いも寄らぬギフトをくれる。


愛、自由、光、風、水、火、土、そして、ゆるし。
天使とガイアとディーヴァの力を借りて、とびきりの香りを創ろう。


完成したらここでお知らせいたします。



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愛の貯金

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自分では気づかぬまま宇宙に預け続けていたらしい愛の貯金が、あちこちから還ってきている。


すべての現実は内側の映し鏡だというが、この世のからくりは木霊みたいなもので、「愛してる」と素直に言えば「愛してる」とかえってくるし、「大好き」と惜しまず放てば「大好き」とかえってくる。


愛するほどに愛される。
喜ぶほどに喜ばれる。
そうして、いつもいつでも愛し合っている。


何年もの月日を超えて「愛していた」と届く心があり、いくつものへだたりを越えて「感謝しています」と届く思いがある。放った思い、捧げた心、送り出したエネルギーは、時空を超えて必ず届く。


そうして生きていることの中には、思わぬギフトがいつもいつも待ち受けている。宇宙をめぐらせる愛の循環。


思いもよらぬところから届く時空を超えたありがたいギフトに、このところ涙腺はすっかり緩みっぱなしだ。溢れだす水は、溶けだしたこころ。零れ落ちる水は、忘れていたわたし。


時が、こころが、わたしが、ほどけていく。
ありがとう。
愛しています。



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2015年6月 9日

そのままをゆるす香り、ほどく香り

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ふと、寂しさを、悲しみを、癒す香り、慰める香りもいいけれど、それをそのままに味わうことをゆるしてくれる香りがあってもいいのではないかと思う。さて、では、悲しみを色に置き換え、それを香りにするとなれば、どんなイメージが広がるだろう。


音は色、そして色は香りになる。あらゆる感覚、感情は、生の煌めきと彩であり、すべての色は、根源的には生きている悦びにほかならない。


などという、どうでもいいような取り留めのない妄想。







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2015年6月 8日

6/30(火) フェルナンド・ペソーア「海の詩歌」 @シアターコクーン

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ポルトガル詩人フェルナンド・ペソアの数ある異名の一人、アルヴァロ・デ・カンポスによって書かれた詩『海の詩歌(オード)』を舞台化した作品が、6月30日にシアターコクーンで公演される。


『海の詩歌(オード)』は、夏の朝に波止場でたたずむ男の想像の物語だ。しかし、男の中から溢れ出すイマジネーションは、想像という言葉の範疇を超えて加速し、加熱し、暴走する。


内側に滾る情動のマグマに耐えきれなかった肉の裂け目から、ほとばしるように漏れ出す根源的な欲望と衝動。血なまぐさい描写も多々あれど、それでも言葉が、波が美しいのは、それがまるで入れ子になった夢のような世界だからか。


「読むだけで消耗する」と言われる詩だそうだが、その消耗はおそらくエクスタシーと隣り合わせだ。破壊と変容、狂気と静寂、すべてを感覚することは、全能であると同時に己の死でもあるだろう。


この詩を生身の人間が一人舞台で演じるとなれば、そこにはいったいどんなエネルギーの爆発が起きるのだろうかと、楽しみでしかたない。




Bunkamura シアターコクーンの公式サイトはこちら
『海の詩歌(オード)』


『海の詩歌』Facebookページはこちら
フェルナンド・ペソーア「海の詩歌」









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それだけのこと

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優しい言葉と心からの励まし、肯定と受容に満ちたあたたかなエネルギーをたくさんいただいたこの週末。


涙、鼻水、汗、血液・・・そして、ことば。
さまざまに流れ出しては還元されていく水。


トンネルをくぐるように浄化されては、新たに生まれ変わることの繰り返し。
いつでも還るところは同じだ。


喜んでいたい。
楽しんでいたい。
祝っていたい。
そして愛して、愛されていたい。


ほんと、ただそれだけのこと。



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2015年6月 7日

東京星図がやってきた

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先日、美しいシルクのワンピースとともに親友が譲ってくれたのが、松村潔著『東京星図』という本。何年も前から気にはなっていたけれど、なかなか手に入れられずにいた一冊。なんとなくパラパラめくって読んでいたら、面白いことに気が付いた。


わたしの生まれた時の太陽の位置は、東京で言えばちょうどホテル・ニューオータニのあたりにぴったり対応するらしい。魚座エリアの紀尾井町へ、近々行ってみようと思い立つ。(ホテルのサイトを見てみたら、カフェのメニューも気になった。)

そういえば、明日はまた「フェルナンド・ペソーア学講座」を受講するために、麹町のポルトガル大使館へ行くのだった。あのあたりは、水瓶座最終度数にあたるだろうか。これまであまり足を踏み入れたことのない場所だ。


ふと身の回りを見渡せば、香りも、服も、本も、機会も、断捨離の後にやってきた新しいエネルギー。これらとともに新たな自分で、行ったところのない場所へどんどん足を運んでみよう。


(そうそう。ちなみに、わたしがかれこれ8年ほど暮らしている今の部屋は、生まれた時の月の位置に度数までぴったり当てはまっていて、なるほどなぁと納得した。12室の月なので、ここはわたしにとって、社会生活からは隔離された死と再生と夢見のための隠れ家なのだ。)



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moon time

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生理周期は宇宙の奇跡だと改めて思う。
肉体は宇宙そのものだ。


月経中の女性の浄化力は本当に強力で、本人の体や意識のみならず、周囲へもその影響を及ぼしながら(周囲とは、内なる宇宙の反映なのだから当然なのだが)、あらゆる不要を洗い流し、終わりを終わらせていく。その周期の間に受け取られ、作られ、築かれたすべてが整理され、次なる始まりのための準備が整えられていく。そうして、肉体も、精神も、意識も、空間も、本人も、周囲も、あらゆるスペースが新たな始まりを迎えていく。


いつか出逢った文章を思い出す。確か『地球のレッスン』という本の中にかかれていたメディスンウーマンの言葉だ。


『すべての女性にとって、ムーンタイムは健康の基盤となるものであり、そうやって得た健康を維持するための自然のサイクルでもある。
女性は生理になると自然によって清められつづける。それは特別な時間であり、その間彼女は母なる地球のサイクルと宇宙に偏在するコズミックな力と調和を取るように心がけるべし。

彼女たちはそのためにも、あたまとこころとからだをひとりになるところに置いておかなくてはならない。それは女性にとって聖なる時。だから、自分の全体性を再生産するために、自分自身をかき消す。沈黙思考と瞑想と祈りと個人の償いだけに費やして過ごすこと。

女性はムーンタイムをスピリチュアルなものととらえて、月への祈りと共にうやうやしくそのときを迎えなくてはならない。』



吸っては吐いて、受け入れては溢れ流し、築いては壊し、生まれて死んで、満ち引きを繰り返す海と同じだ。そして、それはまるでダンスのよう。


月経中のことを「ムーンタイム」と呼ぶというのがなんとも素敵だと思う。そしてふと、アボリジニに伝わるという「ドリームタイム(ドリーミング)」を思い出す。


宇宙の夢を見る肉体という宇宙。
終わりなき宇宙のダンスと、水が見る果てしない夢。



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2015年6月 6日

surrender

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委ねるとは、望まないことではなく、望み通りを手放すこと。明け渡すとは、期待しないことではなく、期待通りを手放すこと。


そうすると、そこには新たな空間ができて、望みや期待を遥かに超えるギフトがやってくる。


経験、出逢い、機会、時。
宇宙に手放し、宇宙を受け容れる。


ああ、まるで呼吸のようだ。



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2015年6月 2日

香りをお渡し

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今日は、完成した「あなたの香り」をモニターさんにお渡ししました。


今回お創りしたのは、ゴールド~オレンジの色彩を基調にした、新たな始まりへの期待と高揚、泉のように湧きあふれる喜びを描いた香り。天使の祝福と秘密のエッセンスも調合し、幕開けの意を込めた名をつけて、香りに魔法をかけました。


お渡ししてすぐ、手首につけてくださいました。そして、香りを吸い込まれて・・・「いい香り!!手元に来たものが必要な香りなんだと思っていましたが、それどころか、何一つひっかかるもののない、今の私にぴったりな香りです!」と。


なんて嬉しいことでしょう!


事前に一度お会いしてお話をうかがい、そこで共に見させていただいた夢やビジョン、そこに広がって見えたイメージと風景、そして、それらに感じた色や音などを香りにしました。


祝福と歓喜の幕が開き、ますます大きな喜びの循環へと自由に、自在に、羽ばたかれますように☆


帰り道、一人で祝杯をあげようと、ちょっぴり久々にお邪魔した好きなお店で、アルザスのロゼ・スパークリングをプレゼントしていただき、ますます幸せな気分に。落とされた照明に浮かび上がるその美しい色合いは、今回お創りした香りの中に閉じこめた、海の向こうに広がる鮮やかな朝焼けのグラデーションによく似ていました。


ああ、もっともっと香りを創りたい。
いえいえ、創っていきますよー!


香りを創らせていただけて、そして喜んでいただけて、本当に幸せです。


天の導き、地の恵み、天使、スピリット、ディーヴァ、そして関わってくださるあらゆる人々・・・宇宙のすべてに、ありがとう☆



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