2016年4月 7日

ブログ終了のお知らせ

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思いもよらぬ流れに運ばれ、2015年11月以降ずっと日本を離れていました。
今後も日本を離れることが多くなると思います。


Twitterでは変わりなく日々の思いや体験を綴っています。




◆追記 2018.1.22◆

2017年にチェコ共和国へ移住しました。
新しいブログはこちらです。
Ateliér Alchymistky Journal

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2015年11月16日

香りの創作について

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友人から依頼を受けたフレグランスミストを試作してみた。お話を聞いて浮かんだのは地中海の風景。笑顔にならずにはいられない青空と、鮮やかなターコイズブルーの海、切り立つ岩場の上には一面に広がる黄色い花。からりと乾いた温かな風、優しい大地のぬくもり、漂ってくる野草や花の香り。


「不滅、不死」を意味する黄色い花イモーテルを中心にレシピを組み立ててみた。太陽(helios)と金(chrysos)を語源とするイモーテル=ヘリクリサムは永遠の美を象徴する花だ。


自分でもおもしろいと思うのだが、香りのオーダーをいただくといつも様々な風景が浮かび、そこに時が流れて、景色や気配が変化していく。それをそのまま眺めていると、そこにふと一つの香料が浮かぶ。それを中心に置いてあげれば、レシピは自然に組み上がっていく。


だから、たとえばイモーテルが不滅を意味するとか、永遠の美を象徴するとかというのは、後から加えた説明でしかなくて、話をうかがいながら見えてきた景色の中に、その黄色い花は既に存在しているのだ。


もちろん、レシピは自然に任せるだけでは出来上がらない。景色の中の香りをそのまま再現するのではなく、そこに見えた物語を形にするために香りを組み立てていく。


だから、見えたそのままの花や木々の香りを必ず使うわけではないし、まったく異なる香りを用いて、その印象を作り出していくこともある。いくつかの記号を組み合わながら、幻から現を生み出していくような作業かもしれない。


ただ、いつも思うのは、まだ存在しない香りを作り上げているようでいて、その香りは、実は見えないところで既に完全な形で存在しているのではないかということだ。だから、私が成すべきことはといえば、その美しい形にできる限り近づくことであり、そしてそれは大抵、加えて、足して、組み立てていくというよりも、むしろ削ぎ落としていく作業となる。


「こういう香りを作りたい」という意図はあるが、話をうかがう中で見えてくる景色はわたしという意図を超えてやってくるし、そこで浮かぶ香料もまた意図して見出せるものでもない。しかし、その「既に存在する香り」に近づこうとする意図は必要で、それはまるで意図を超える意図へと手を伸ばしていくような行為だ。


そういう時に、アタマつまり知識で作ろうとすると、イメージの中に見た風景と物語は遠のいてしまう。そしてまた、その風景をただ再現するだけでは、見えないところで既に完成されて存在する香りには到達できない。だから、委ねながら意図し、意図しながら手放して、削ぎ落としながら組み立てていく。


そんな風にして、考えてもよくわからない作業と行為を重ねていくのは、とにかくおもしろい。香りを作らせていただけることは、本当に嬉しくて、ただありがたい。意図を超えるイマジネーションを、意図を超えて形にするのは喜びそのものだ。だから、いただく機会にいつも感謝している。


さて、今日も美しいイメージを描いていこう。


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2015年11月15日

世界を創造するということ

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外側に発見するものはすべて内側にあるものだ。内側が安らいでいれば、外側も安らぎに満ちていくし、内側が素直に循環していれば、外側の循環もスムーズで豊かなものとなる。もし外側が足りないと感じるなら、それは、内側への関心と認識が足りていないということだ。


外へと求め、外へと働きかけるエネルギーを、内を認め、ゆるし、満たすことへと注ぐほどに、外側もまたゆるされ、満たされていく。


何かが本当に足りないならば、今ここに存在していないのだ。だから、今の大丈夫を本当に知れば、安らぎも豊さも内から外へと響いていく。


誰かを助けようとする前に、何かを変えようとする前に、自分を知り、自分を認め、自らを満たすことが先だ。それこそが己を知るという本当の謙虚さであり、そして、自らに安らぎ、自らを幸せにできる者は、存在するだけで周囲に、世界に、安らぎと喜びを届けていける。
安心も、喜びも、いつでも内側で発見されることを待っている。認められ、ゆるされ、放たれることを待っている。


内側にあるエネルギーを正直に表すことで、望みは創られていく。
安心と喜びに満ちた世界が創造されていく。



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2015年11月14日

Seraphim

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                             "Seraphim Ⅱ" by Dan Hillier


『それは抵抗するかもしれない。
様々に煽り、揺さぶるかもしれない。


しかし、内なる安らぎがもたらす力は決して消えることはなく、内なる喜びが鳴らす響きは決して途絶えることはない。


自分自身でありなさい。
真の自分へ還りなさい。


そうして、
安らぎそのもの、喜びそのものでありなさい。


それこそが愛です。
それだけで十分です。』


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2015年11月13日

nothing but

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川のように流れていく無数の言葉が鳴らす大音響の中にも、ふと特別に響いてくる音があり、よく耳を澄ませてみれば、それは天上の響きを宿す言葉で、ああ、もう、必要なのはそういうものだけだと思う。


それは言葉ではなく、人でも、フォームでもなくて、
そこに流れるエネルギー、そこに宿る波動なんだ。



If you look to closely at the form, you miss the essence. - Rumi



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2015年11月12日

幸いも、美しさも

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幸は自らの内にあるように、美もまた自らの内にある。


どんなときでも、どんなことがあろうとも、自らを幸せにすること引き受けた者に、世界はいつでも優しく手を差し伸べる。他者の判断や価値観に委ねることなく、どんなときでも自らの美を誇り、いつでも美しくあろうとする意識が、形を超えた美を体現させてくれる。


幸せも、美しさも、外側のカタチではなく、内的状態の現われだということ。幸せも、美しさも、何にも損なわれることはなく、何に奪われることもない。


自分の幸せ、自分の美しさ、自分であるという尊厳は、誰かや何かによって護られるものでなく、自ら責任をもつべきものであるということ。それこそが真に謙虚な姿勢であり、命への最大の讃美だろう。


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2015年11月11日

美学とスタイル

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「それは、ひとときを埋めるための消費か?それとも、喜びに基づく奉げものか?」


素直に素敵だと感じたある品物、作者の素晴らしい感性とイマジネーションに深く共鳴した品に出逢い、購入しようかどうかを迷った時に、ふと浮かんだ問いがこれだった。そして有難いことに、ちょうどそれを購入できるだけの収入が入ってきた。


美しいことがいつだって基準だ。何かしら対象を美しいと感じるというだけでなく、そこに共鳴する自らの内的な動きが美しいかどうか、そこに向き合う自らの姿勢が美しいかどうか。


誰かや何かにおもねた判断ではなく、自分から逃げる口実でもない、自分自身の正直な感性と哲学。それは、生きる上での美学であり、スタイルであり、そして本当に命が納得しているかどうかということでもある。


ありがたくめぐってきたエネルギーに新たな喜びと感謝を載せて、惜しみなく美へと奉げよう。



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2015年11月10日

命を通らせる

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この肉体、わたしやあなたという存在はエネルギーの器のようなもの。いや、エネルギーそのものとも言える。あらゆる現実が無数の粒子の流れであるように、存在とはうつろい続けるエネルギーの現われだろう。

だから、エネルギーをどこにチューニングするか、どう響かせるかで、創られる現実も無限に変化する。自らのエネルギーを素直に、正直に、そして自主的にチューニングして響かせるだけだ。


そのためにはまず、自分が何を望んでいるのかを知る必要はあるけれど。内側を整えるほどに、わたしは、あなたは、世界そのものであることが見えてくる。自分即世界、いつだって望み通りに響きあい、受け取っりあって生きている。


自分の内側を自らで整えること。自分のエネルギー、意識状態に自分で責任を持つこと。どんな影響を受けようとも、自分を自分で引き受け、自分の正直を信頼する。そうすれば、いつでも、どこにいたとしても、自分が自分を助けていく。そうして世界は自分の反映であることが見えてくる。


『命を通らせましょう。
疑い、おそれ、止めることなく、命に任せて委ねましょう。
喜びの道は、いつでも命が教えてくれます。』




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2015年11月 9日

アート、命

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アート(命)はアート(命)を刺激し、揺さぶり、新たなアート(命)を呼び覚ます。人がアートを作るのではなく、アートが人を通って現れるのだ。作品がアートなのではなくて、アート(命)が通り抜ける現れこそがアートであり、そういう意味で、誰しもがアートそのものとして響き、動き、生きている。


アート(命)が通り抜けた後に残される形、つまり作品は、アート(命)の余韻を宿し、その残響を放っている。人がアート作品に触れて揺さぶられるのは、その余韻や残響が触れる者のアート(命)を呼び起こすからだろう。芸術世界だけではなく、日常においてもアートとアートは共振しては揺さぶりあい、呼び起こしあっている。


アート(命)が通り抜けていくのは純粋なる快感であり、官能であり、それは、あらゆる感情を包括する大いなる喜びで、そしてまたそれはエロスの体現でもあるのかもしれない。
響きが通り抜けて生まれるというエロスと、その残響、余韻としての死の形(作品)。そうしてアート(命)は、無数の生死を繰り返している。


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2015年11月 8日

ジャン=クロード・エレナ『調香師日記』を読み返して

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エルメスの専属調香師ジャン=クロード・エレナ氏は、著書『調香師日記』の中で、ジャずの巨人ビル・エヴァンスについて触れている。


数々のビル・エヴァンス・トリオの中でも、私が最も好きなマーク・ジョンソンとジョー・ラバーバラとの演奏に言及した後に、「この〈色彩のある音〉を〈色彩のある匂い〉に置き換えられないものかと思う」と述べていて、強く共感する。


そう、色なのだ。
私もまたビル・エヴァンスの生み出す音の色彩に惹かれてやまない者であり、その色は私の中からうつろう水彩画のような香りのイメージを引き出してくれる。


今取りかかっている香りを作ったら、次は、まだ形にならないまま孕まれているいくつかの音楽(サウンド、音の色彩)から想起されたイメージを香りにしていこう。



ビル・エヴァンスのプレイは、繊細で、端正で、存在感と輝きを放っている。
                    ジャン=クロード・エレナ『調香師日記』より








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2015年11月 7日

不安もエネルギーに

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それがほんとうに必要なのか?
それでなければならないのか?
それをしなければならないのか?


そもそも、それが無ければ生きられないのか?


自らにまっすぐ問うてみれば、すべては根拠のない不安から生じる思いこみであることが見えてくる。不安は不安のままに認めれば溶けていく。


ポイントは、何かに結びつけないこと。


理由をつけずにちゃんと見つめて、自らそれを受け入れれば、不安だって味方になるし、より快適に生きるエネルギーになる。


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超えていく力

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結果を握らない。
展開を決めつけない。
未来を想定しない。


それらを手放して捨てたところに、より善い、より快適は流れ込む。


そうなってもいいし、そうならなくてもいいと委ねれば、都度の最善がやってくる。どこまで手放しで本音になれるか、どこまで委ねて正直になれるか。その時々の正直が、予想を超えた次を拓く。捨てることで、新たに開く。


自分自身であること。
どこまでも、どこまでも。
それこそが超えていく力。


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2015年11月 6日

すべてはエネルギー

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好ましいとか好ましくないとか、気が合うとか合わないとか、そういった物質的次元、人柄や性格といった現世的な面とはまったく異なるところで、エネルギーによってすべてが起きて、エネルギーがすべてを運んでいる。


繋がるエネルギーとしか繋がれないし、速度のあう人としか一致しない。
どちらが正しい間違いではなく、ただそれだけのことなのだ。


そこで無理をすれば執着となり、捻じれが生じて思いが邪になる。そこで握ると嘘となり、歪みが生じて苦しみとなる。邪とは人格や性質ではなく、場(人もまた場である)に起きるある種の流れのようなもの。


自我レベルでは共にいたくとも、共にいられぬエネルギーがあり、物質的レベルで共にいなくとも、響きあえるエネルギーがあり、それは自我の望みや期待などをはるかに超えていて、しかし、個を超えるわたしはいつでもそれを知っている。


そう、本当は知っているのだ。
それを見るか、それとも見ないか。
それだけのこと。


真に腑に落ちるとは時に衝撃的なことであり、しかし同時にそれは静かに納得へと鎮まっていく。そうして死んでは生まれ変わる。


人は生きながらにして死に、新たに生まれる。
さて。


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女神の余韻

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現世的世俗の枠組みではなく、
神話的な世界の残響。
象徴的な形無き印象。


それは決して所有できないからこそ永遠を宿す。


美とはそういうもの。
香りもまたそういうもの。
それは真に贅沢なもの。



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2015年11月 3日

自らを

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「神は自ら助くる者を助く」とは正に真実だ。


自らを助けようとしない者、自分から逃げる者は、神ですら救えない。なぜなら神は他でもない自分の内にあるからだ。


自分に責任を持たぬ者、他者への心配や自己犠牲などと名目をつけては自分から目を逸らし続ける者は、結果的に際限なく人から奪おうとする。それは、無自覚なだけにより罪深い。(エネルギーヴァンパイアに捕まりそうになったら、とにかく逃げるしかない!それが相手にとっても最善の選択。)


自分で自分を満たすこと、自分で自分を幸せにすること、それは自分を引き受け、自分に責任を負うことだ。自分をいつでも機嫌よく快適にしてあげるだけで、すべては自ずとうまく巡っていくし、自然と周囲や人の役にも立っていく。


何を成さずとも、何かしようとしなくとも、自ら幸せな人、めでたい人、安心な人で在るだけで、全方位すべて善しなのだ。


愛は無尽蔵ではあるが、それを現わす肉体は一つしかなく、この体をして生きる限り、愛も、感情も、時間も、リソースは限られている。それをどこへ注ぐか、どこへ奉げるのかを、自ら責任をもって選択するのは何よりも大切なこと。


まずは自分に。
そうして自らが満たされれば、自ずと愛は溢れ出し、必要なところへ流れていく。


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水面の反映

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それは、ただ在るだけであり、それは、ただ起きただけだが、それとそれとを好きに組み合わせては見たい角度から見て、思いたいように解釈し、あれやこれやとラベルをつけて遊んでいる。そうして自ら作り出した意味といううつろいに一喜一憂する無限のゲーム。


無数の宇宙が重なる此処では、無数の物語が結ばれてはほどけていく。


それぞれがそれぞれの宇宙で、それぞれの現実を作り、それぞれの視点で味わいながら、それぞれの眼差しで他の宇宙を眺めている。一つとして同じ視点はなく、それらが同時にさまざまな色を奏でては、終わることのないハーモニーが響いている。


揺らぐ水面の反射を見ていると、よくそんなことを思う。


何のためでもなく、何の意味もなく、ただすべてを経験するために生まれてきた。生死すら自らの支配下ではなく、まるで何か大きな力によってもたらされたもののようであり、しかしながら、すべての経験を通して浮かび上がるのは「わたし」といううつろい。


「此れ」はゆらぎを遊びに来たのか、それとも、そもそも「此れ」すらが何か大いなるものが見るひとつの夢なのか。


それぞれがそれぞれの世界で、それぞれに見たいものを見て、それぞれに遊んでいる。それぞれの世界がときに重なり、交わり、響きあい、そうしてまたそれぞれの世界を創っていく。
あなたが見るのはそういう夢かと他の人たちを眺めながら、わたしはわたしの夢を見ている。夢と夢とが響きあう音にときおり耳を澄ませながら。永遠に見ることはできぬ他者の夢に静かに思いを馳せながら。やがて同じひとつに還るまでの儚くも豊かな一瞬の永遠。


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beloved

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ふと目が覚めた瞬間、纏まった文章が頭に浮かんだので咄嗟に書き留めた。
そうして何気なくTwitterを眺めていたら、この画像が流れてきた。

ギュスターヴ・ドレ
『至高天を見つめるダンテとベアトリーチェ』

ああ、天国は此処にあり。

ありがとう。
愛しています、世界。


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2015年11月 2日

求めれば与えられる

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愛されたいならば。
ただ「愛されたい」「愛してほしい」と素直に求めればいい。


愛されるために条件などなければ、代わりに何かを差し出したり、犠牲にしたりする必要もない。宇宙は無限に太っ腹で、いつでも無尽蔵の愛で、無条件に愛してくれる。


そう、そんな宇宙を誰しもがその内に有している。


「愛されたい」と素直に願えば、無限に愛してくれる宇宙。「受け入れられたい」と素直に求めれば、無限に受け入れてくれる宇宙。そんな宇宙が誰もの内側に在る。それこそが、真のあなたであり、真のわたし。


そうしてそれに気づいたならば、内なる宇宙は現実へと反映される。内なる宇宙の愛に気付けば、外側からも愛されていることに気づくだろう。現実に、そういう存在が現れるだろうし、実は既に無条件に愛されていたということが見えてくるだろう。


いつでもあなたの内側で、宇宙はあなたを待っている。気づかれ、望まれ、求められることを、いつでも静かに待っている。

請うのではなく、求めること。
それは、自らを許すこと。


そうすれば、宇宙はすべてを与えてくれる。
ほんとうは、既に与えられているのだけれど、ね。


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2015年11月 1日

夢を生きる

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快適で、安心で、喜びに満ちた夢を生きるには、まずしっかりと目を覚ます必要がある。現実から、いや、その現実を作り出している自分から逃げ続ける言い訳としての夢ではなく、真に豊かで幸せな夢を描く力は、自分自身に還ってはじめて湧きだしてくる。それは正直な力であり、純粋な、素直な、エネルギー。


夢を生きることと、夢に逃げることは、似ているようで全く異なる。イマジネーション=夢見る力は、真に自分を生きるためにこそ与えられた恩恵だろう。自らの正直に還ってはじめて、人は真の夢を描き、それを現実に生きる力を発揮するのではなかろうか。


『ひとりで見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる』とは、オノ・ヨーコさんの言葉。


さて、どんな夢を描く?
どんな夢を分かちあう?
そして、どんな夢を現実に生きる?



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無理をしないこと、自分を大切にすること

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なぜか調子が狂うとか、どうも時間が足りないとか、ちょっとしたミスが重なるとか、どうにも心身が冴えないとか、気づけば呼吸が浅くなっているとか、、、そういう時には立ち止まってみることだ。不必要に気を遣ったり、不要な義務感を覚えたり、そうして人は無理をしてしまいがちだからね。


小さくとも無理をしたら、そのしわ寄せが宇宙のどこかに起きるものだし、無理を重ねるほどに、ますます無理は増えていく。どんな理由であれ無理をすることは、結局のところ宇宙のめぐりを滞らせる。


それ、本当にやりたいこと?そこに本当にワクワクしてる?実は無理をしていない?やらなきゃならないと思いこんでいない?


本当は、わたしがそれを担わなくても、なんとでもなるものだし、あなたがそれを負わなくとも、なるべくようになっていくのだ。


今やりたくないことはそのままにしておけばいいし、気が載らないなら放っておけばいい。やらねばならぬことなどないし、すべてのニーズに応える必要もない。放っておけば、やがてふと行動する時が来るだろうし、手を離せば、それを担いたい誰かが現れるかもしれない。いつだって、すべてはバランスされるもの。


やりたいことをやる以上に、やりたくないことをやらないことが、実はとても重要で。正直に生きる、素直に生きるって、そういうこと。そしてそれは、自分を最も大切にすることだし、人や世界を本当に大切にする術だ。


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2015年10月29日

愛と美と喜びと

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香りは音もなく体に響き、思考を超えて呼び起こす
感応することは、官能すること

官能はエロスを呼び覚ます
鳴らされ、揺らされ、生が目覚める

それは、命の力
生きていること

呼び覚まされた生の力は
自在に夢を描いていく

そうしてそこから宇宙が広がる
内と外とが共鳴していく



・・・アフロディテとエロスの香りを創ろう。
そして、プシュケの香りも。


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2015年10月28日

surrender

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「宇宙に、必要の全てを用意する余地を与えてください」




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