2012年1月17日

悩みつつ、嘆きつつ

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悩んだり、もがいたり、憤ったり。悲しんだり、怒ったり、嘆いたり。苦しんだり、痛んだり、沈んだり。辛ければ辛いほど、けれど、そこに生きているということを観てしまうというのは、結局のところ本当には悩んだり、苦しんだりしていないからなのか、はたまた体験がなまっちょろいからなのか。


案外、私は闘うことが好きなのかもしれない。誰かと競ったり争ったりするのではなく、自分自身の内面と、それが映し出す目の前の現実との闘いだ。辛い、苦しい、嫌だ、悲しい、そう嘆きながら、どこかで活き活きと闘っている自分がもう一人いるような、そんな気がする今日この頃だ。


どうしようもなく苦しいとき、どうにも救いがないようなとき、私はとにかく言葉を求める。今この瞬間の生を掬い上げてくれるような言葉を求める。自らの内に湧き出て止まない純粋感情をなんとか言葉にしようとしてもがく。そうして、のたうちまわりながら書いている時、私は私を忘れ、世界を忘れている。


よくよく周囲を見てみると、人が生きているということのその様は、みなそれぞれ。それぞれに滑稽で、それぞれに悲しく、それでいて、それぞれに活き活きとしていて、それぞれに面白い。人とはなんともおかしなものだなあと思う。


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2012年1月15日

カップの3

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昨年末に手に入れた1973年スペイン製のマルセイユ版タロットのことが、特別に気に入っている。大袈裟でもなんでもなく本当に、ようやくしっくりくるカードに出会えた感じだ。何よりもまず色使いが鮮やかで絵柄が楽しいし、大きさや触り心地もよく、まだ使い始めたばかりなのに不思議なほど手になじんでいて、既に深い親しみすら覚えている。


久しぶりに自分についてカードをひいたところ、なんと「カップ3」のカードが2枚も出てきた。それも、個人的に大切な問いへの答えとして出たカードだっただけに、とても驚いた。おそらく製作時のミスだと思うのだが(つまり1枚多く入っていたので、カードは合計79枚入っていたというわけだ。)、こんな偶然もあるのだなあと不思議に思う。「カップ3」はポジティブで生産的な意味を持つカードなので、1枚は御守りに持ち歩くことにした。(3月3日生まれの私にとって、3は特別な数字でもある。)


私は通常、自分についてのあれやこれやをタロットで占うことは殆どない。なぜかというと、自分のこととなると途端にカードの指すところがなかなか読み解けなくなるからだ。しかし、今日は本当に久々に自分についてのことを問うてみて、カードのあまりの明確さに驚いた(とはいえ、実際には師匠に読み解いてもらったのだが)。


いやはや、タロットはやっぱり面白い。その偶然性が示唆するところのあまりの的確さには毎回本当に驚かされてばかりだ。


ずっと心の奥底で「そうなってはいけない」という否定を植えつけられ、無意識に抑圧し続けてきた想いと自らの性質。そして、社会生活の中で刺激し続けられてきたコンプレックス(だと思い続けてきた部分)。それがむしろ自分らしさの最たる要素であり、実のところはそのまま生きていていいのだという肯定感を得ることができた。


タロットカードによって、また一つ、自分が自分から解放された日だった。


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音楽の源

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音楽とは、湧き出て止まない泉の如き感情。それが意図を超えて溢れ出す一つの在り様なのかもしれない。ここでいう感情とは、思考や思い、または反応としてのそれではなく、命を宿す肉体が自ずと放つ波長のようなもの。命を通して放たれる魂の響き。そういう”感情”が即ち音楽なのかもしれない。


このところ毎日聴き続けているPaco de Luciaの音楽、その音に触れていると、そんな風に思えてしかたない。そして、今夜のライブ(原田芳宏 Steel Pan Jazz Oechestra"THE JUBILEE")でも同じように感じる瞬間があった。


生きているということ。命の水を汲み続ける肉体と、そこに秘められた尽きることのない泉。それこそが音楽の源なのかもしれないと。


それにしても、この音楽はどうしてこうも心を鷲づかみにして離さないのか。15歳でBill Evansに出会ったときと同じぐらいの衝撃を受け続けている。この人の音楽、その深さと大きさ、その熱量と質量、その特異さと美しさに驚き続けている。







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2012年1月11日

夢を見ること

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夢を見るということを、いつからか忘れている自分がいる。幼い頃はいつもいつも空想に耽り、自由に夢想して、夢と現を同時に生きていたというのに。あんなにも私の心は自由で、形なきままに世界と溶け合っていたというのに。(実際私は、普段から夢見がちで、夢遊病と寝言が激しく、夢と事実をよく混同する子供だった。)


夢見ることを思い出そう。再びまた夢を描こう。


人は実現できることを夢見るという。ならばできるだけ楽しくて、喜びに溢れ、多くの人と共に幸せを分かち合えるような、そんな夢を描きたいと思う。


あなたはどんな夢を見るのだろう。そして、私は、あなたの夢を共有できるだろうか。


「みんなで見る夢は現実になる。」とオノ・ヨーコさんは言う。それはまったく本当のことだと深く信じている。


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2012年1月 9日

肯定へ

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「~してはいけない」「~は悪いことだ」「~だからダメだ」「~だから良くない」「~になってはいけない」「~するな」「~なのはお前が悪い」・・・一体どれだけの否定を浴びせられ、それによってどんなにか傷付き、己を否定し、内なる抑圧を抱えて生きているだろうか。


そうやって他者によって裁かれた(そして傷ついた)経験を経て、人は自らで自らを裁くようになる。そして裁かれた自己は否定され、内面へと強く抑圧される。そうしてやがて人は同じように他者を裁くようになるのだ。


どうか多くの心が、そんな根深い因果から自由になることができますように。自己を統合し、否定することなくすべてを受け入れられる時が訪れますように。




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2012年1月 7日

旅への思い

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「神在(じんざい)餅」に由来するという出雲ぜんざいを、お土産にいただいた。神迎えの御神事と神在祭を見学するために出雲の地を訪ねたのは、確かもう5年前のことだ。あちらには友人もいることだし、また出雲大社へお参りしたいと思い続けてはいるのだが、なんとなくまだその時期が訪れていないような気もしている。


出雲大社と同じく、大己貴命(大国主大神)を祀られている大洗磯前神社も大好きなお社で、今年もまたお参りしたいと思っている。昨年と同じように、立春の日に訪ねられたらいいなと思い立つ。個人的(運気的)には、1月1日よりも、むしろ2月4日の方が「お正月」らしい節目を感じる。


そういえば、海王星の魚座入りは節分の日(立春の一日前)。まさに新しい運気の始まりともいえる日取りであることに気づく。よし、立春の日に参拝の計画を立てよう。新しい一年、そしてこれから始まる海王星魚座時代を、楽しく喜んで生きていけるように、お参りしに行こう。


たとえそれが短い近距離のものであれ、旅の計画というのはやっぱり嬉しい。「よし、あそこへ行こう。」と思うだけで、こんなにも嬉しくて元気になれるのだから幸せなものだ。もしゆるされるならば、ずっと旅をして生きていたいと夢見ることもある。


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2012年1月 5日

裁きは心を救わない

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何事においても、一つの悪因によって悪い(とされる)出来事が引き起こされることはない。たとえば計画的な悪事や犯罪には首謀となった存在があるだろうが、その者一人の意図や力や行動によって出来事が引き起こされるわけではなく、そこには必ず複数の人の思いや力や様々な要因が関わっている。


ましてや、人と人との関係においてそれは当然のことで、誰か一人が決定的に悪であるがために関係性の悪化や問題が生じるのではなく、そこにはやはり様々な要因が絡んでおり、そこに関わる全ての人の思いや力や意図や行為によって、出来事は起こるべくして起きるのだ。


「お前が悪い」もしくは「自分が悪い」と思うこと自体を否定したいわけではない。そう思うことでしか己を守れないこともあるだろうし、そう思うことでしか救われない時もあるだろう。しかし、それでもやはり、絶対的(または一方的)な悪というものは、特に人と人との関係性においては存在し得ないと思うのだ。


どちらが悪いわけでもなく、何かが間違っていたわけでもなく、関係性は万物と同じように絶えず変化するものであり、決して同じところに留まることはできず、しかしながら、その移り変わりゆく様が時にいずれかの人にとっては期待外れな形であったり、悲しく痛いものであったりするだけのことなのだと思う。


ふと、そんなことを思った夜。
すべての経験、すべての体験は、ただ与えられるだけのこと。


人や物事(そして自分)を裁くのは容易いが、裁くことによって心は救われはしない。いつだって、自分の心を救うのは自分であり、そのために必要なのは、その事そのものを受け入れ赦すことだ。とはいえ、これがなかなかに難しい。人や出来事を赦すには、自分自身を赦すことから始めるしかない。


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2011年12月29日

血の音楽、命の音楽

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無駄を排除し、全てが整えられ、不必要や無能は切り捨てられる世界においては、心を抉り、揺さぶり、動かすような本質的な音楽は生まれにくい。日々の瑣末な出来事の中に、ささやかな喜びの中に、感情の残骸の中に、路地の土ぼこりの中に、人と人の体と心の間にこそ、音楽(表現)の種は落ちているものなのだろう。


教育によって習得されたものではなく、知識や情報によって鍛えられたものでもなく、脈々と続く血と、大地と、歴史によって導かれ、坦々と続いていく日々の生活の中から見出され、生きるということのあらゆる喜びと悲しみ、痛み苦しみによって磨かれて、自ずと沸き溢れ出す音というものがある。


そういった血脈の音楽、命の営みと連鎖の中で自ずと生まれ出る音というのは、どんなに高等な教育をもってしても決して生み得ない深く豊かな力を宿している。それこそはまさに音楽の力というもので、それを前にすると、どんなにか卓越した技術も、知識も、情報も、全てが浅薄に色褪せてしまう。


血という抗いようのない尊きもの。そこに流れる命の系譜としての音楽。



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2011年12月24日

ありがとうございました

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タロットリーディング対面セッション、初日を無事に終えることができました。クリスマスイブの土曜日に足を運んでくださった方に心から感謝いたします。ありがとうございました。

タロットを用いたセッションは初めての試みでしたが、目の前の方の声に耳を傾け、語られる言葉の奥にある願いや望みに寄り添いながら、未来への希望を共に明確にしていく作業は、私にとってどこか懐かしいものでもありました。それはまた、私自身の望みや願いを現実化していくための新たな挑戦に気づかせていただける機会でもありました。


会いに来てくださる方の人生や、その方の存在そのものを、共に肯定していく過程というのは、何よりも嬉しくて有難い経験であり、そして、一人の人の懸命な生にしばし寄り添えるというのは何よりも幸せなことだと改めて思いました。


対話というエネルギー循環の中で、互いに与え与えられ、これまでの生とこれからの生への「Yes」を共に見いだし確認していくという喜び。私は、当たる当たらぬという予知的な意味での占いではなく、占いという手法を通して、人に「Yes」を伝えたいと願っているようです。


今後、少しずつセッションの機会を設けてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。



みなさまの心にいつも安らぎがありますように。どんな困難や悲しみも、やがてはすべて生きる喜びへと昇華されますように。みなさまの日々に多くの恵みがありますように。みなさまの笑顔を祈ります。




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2011年12月19日

還元と成就

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虐待や暴力の体験は、その最中の恐怖感や痛み苦しみ、その記憶に伴う生き難さが昇華された後でさえ、それを語る際には肉体に緊張が生じるということに身をもって気付いた。肉体は、意識など遥かに超えた確かさで、あらゆる体験を記憶している。


脳は自分に嘘をつく(それは得てして自分を守るためなのだが)のが得意だが、肉体は決して嘘をつかない。過去の記憶を語る際、もう悲しみを伴ってはいないというのに、それでもじんわりと汗をかいている自分に気付いたのだった。


臨床心理士である友人との対話の中で、自らの歴史を振り返り、曖昧で断片的な記憶を辿っては繋ぎ合わせ、今と過去を結んでいく作業へと促される。そうしながら同時に、こんな歴史を経てきた自分だからこそ関わりたいことがあるのだと、内なる願いを何度もなぞる。それは、善悪を裁く道ではなく、一人でも多くの心が救われ解放されることへの祈りの思い。


外傷後ストレス障害という言葉が、自分自身にも関わりがあるものだということにも初めて気がついた。このところ、自らの生の歴史に何が起きていたのか、その関連と意味にようやく気づくということが続く。もしかしたらまた一つ、解放への階段が近づいているのかもしれない。



深い悲しみの体験、拭えぬ苦しみの記憶を、人が一人自らだけで抱えて生きていくのはあまりに辛い。深い悲しみ、強い痛みこそ、人に共有され、多くの人々に共通する知恵として他者の助けとなる道があるといい。そうすることで、その人本人も癒されていく。そういう仕組み作りに関わる者でありたいと改めて思う。


虐待も、暴力も、犯罪も、ありとあらゆる「悪しきこと」「悲しきこと」は全て、その行為を糾弾し、行為者を罰するだけでは、決して本当の意味では成就に至らないのだ。法による正しき裁きがあった上で尚、被害者、加害者、いずれもの体験が知恵として世に還元され、いずれもの体験と生があるべきところへと昇華され、成就することを願い続けている。そして、あらゆる悲しき人々が、それぞれの悲しみを世に、人に、還元し、その生がどうか無事に成就されますようにと願っている。




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2011年12月16日

タロットリーディング対面セッションのお知らせ

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突然ですが、お知らせです。

12月より、タロットカードの対面セッションを開始いたします。
初めての試みですので、しばらくの間はモニター価格にてセッションを提供いたします。


単なる未来予測や良し悪しの判断だけでなく、現在の状況や心の状態をタロットカードから読み取りつつ、ご質問を多面的に見つめながら、対話の中でよりよい方向性や解決策を共に探していくセッションです。(セッション中は必要に応じて何度でもカードをお引きいたします。)


  【料 金】 ¥5,000 / 1時間
  【日 時】  12月24日(土)
  【場 所】 「coffee and more Break Time」
         東京都文京区根津2-15-12 1階
         ※東京メトロ千代田線根津駅より徒歩3分


 ・セッション時間は多少の延長は可能ですが、基本的には一時間で完了です。
 ・時間内でしたら何件でもご相談いただけます。
 ・場所はカフェですが、貸切です。飲食代等は必要ありませんのでご安心ください。
 ・セッション代金は当日現金にてお支払いください。

※申し訳ありませんが、投機や金融問題、重篤な健康問題に関するご相談は承りかねます。
  



穏やかで安心できる、セラピー効果の高いセッションを心がけております。また、タロットカードだけでなく、カラーセラピーやアロマテラピー、数秘術など、さまざまなアプローチを使って丁寧にアドバイスいたします。セッションをご希望の方、セッションにご興味を持たれた方は、まずはメールにてご連絡ください。また、質問などもお気軽にお問い合わせください。


お問合せ先 : coloursryoko@gmail.com(送信の際には、「@」を半角に変換してください。)



今後は複数の場所にて定期的に開催していく予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。



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2011年12月15日

内なる幸福

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10月から毎週木曜日に通っている上智大学グリーフケア講座では、本当にたくさんの知恵を授かり、多くの勇気と希望をいただているが、なによりも一番ありがたいのは、講座終了後にはいつも、自分の内側から優しい気持ちが溢れ出しているということだ。


それはとても静かで穏やかな温かい感覚で、感謝や祈りの思いにもよく似ている。今ここに生きていることが無条件に幸せだと思えるのだ。だから、毎回帰り道には一人満足して、目に入る全ての人やモノに「ありがとう、大丈夫。」などと無言の語りかけをしてしまうほど。毎週、こんな機会をいただけるなんて、本当になんてありがたいことだろうか。


とはいえ、これからも私は必ずや何かに悩み、苦しみ、怒り、憤り、嘆き、悲しむことだろう。しかし、だからこそ、自分が穏やかさに帰れるように、自分の内なる幸福に戻れることを思い出せるように、今回の講座が終了した後にも、そのための時間を作り続けていこうと思う。


自分が自分に安らぐことの幸せと、心が穏やかさに還ることの幸福感。そして、そのための時を持つことの大切さ。自分が自分で幸せであること、機嫌良く、笑顔で、優しくあることの心地よさ。そんな当たり前のことに気づかせてもらえる機会を、これからも大切にし続けていきたい。


すべての天の計らい、与えられる恩恵に深く感謝し、明日からも、機嫌良く穏やかに笑っていよう。そして、いつだってこの内なる幸福へと帰れるということを忘れずに生きていこう。



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2011年12月11日

心に描く情景

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心に苦しみが寄せくるとき。心が痛みに震えるとき。心に悲しみが降り積もるとき。ほんの少し目を閉じて、静かに呼吸を繰り返しながら、自分自身の奥深くへと語りかける。「ありがとう。ありがとう。大丈夫。」と、そっと声をかける。


そうしてほんの一瞬だけでも心を遠くへと旅立たせる。心に情景を描き出す。それは、いつか訪れた山や川であったり、いつか見た海や空であったり、いつか過ごした静かな時であったり。心が沈まぬように、心がおぼれぬように、自らで心を解き放つ。


今日はふと、秋のはじめに訪れた岡山の山里に佇む大きな古民家での、雨に抱かれた静かな時が心に蘇った。100年もの間さまざまな人の営みを守り続けてきた木造家屋の中、降り続く雨に包まれて過ごした優しい空白。なにもない、誰でもない、透明な時間。それは、心がただ穏やかさへと還る時。


喜びの奥には悲しみがあり、笑顔の裏には涙がある。誰かの楽しみの影には誰かの痛みがあり、誰かの笑いの後ろには誰かの涙がある。そうやっていつでも世界は循環している。あなたの喜びも、私の悲しみも、あなたの痛みも、私の笑いも、すべてはめぐりめぐってやがては空へと還っていく。



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2011年12月 6日

若き友へ

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人生は決してあなたを裏切ることはない。悲しい出来事も、辛い体験も、どんな痛みも苦しみも、全ては人生があなたに与える糧であり、天からの大切な贈り物なのだ。十分に悲しみ、その痛みや苦しみを味わいつくし、そうしてまたそこから新たに生きていこう。


人生は、あなたが悲しみや痛みばかりを見つめて閉じこもり、感情に溺れ続けることを決して望んではない。天はあなたに「なお、立ち上がり、生きること」を望んでいる。そして、あなた自身も本当はそれを望んでいるはずだ。あなたは、あなた自身の悲しみを通して、誰かの心の奥に隠された悲しみを見ることができるようになり、あなた自身の痛み苦しみを通して、誰かの痛みや苦しみを知ることができるようになるのだ。天は、あなたが再び立ち上がり、その悲しみ、痛み、苦しみを、生きることへと還元していくことを願っている。


辛い別れ、ひどい裏切り、失望、失敗、失恋、そんなありとあらゆる喪失の体験。その悲しみは消えることはないかもしれないし、その傷はずっと痛み続けるかもしれない。でも、それでもなお生きていくということ。それを人生は望んでいるし、あなた自身もそう願っている。


悲しみに留まり、失ったものを求め続けることがいけないというわけではない。けれど、一体あなたは何を失ったのだろうか?そのことを、よく考えてみてほしい。失ったのは誰かや何かの存在ではなく、実は、あなた自身の内にあった期待や欲求、またはそれへの報いや返答だったのではないだろうか。そして、あなたは、本当は何も失っていないのではないだろうか。


その悲しみはさぞかし深く、その喪失感はとてつもなく大きく、だからこそ、あなたの心は過去に留まり続けようとするのだろうと思う。そんなあなたの姿を思うと痛々しい。しかし、厳しいようだが、それでも人は生きていかなくてはならない。そして、自らで自分を救い出し、自分で自分を幸せにしてやらなくてはいけない。


あなたには、まだまだたくさんの出会うべき人があり、成すべき働きがあり、辿り着くべき場所がある。そこへ向かうようにと、人生はあなたに望み続け、語りかけている。その声をどうか聴いてほしい。あなたが本当に望んでいること。それは、何よりも「あなた自身を喜んで生きること」ではないだろうか?


悲しいときには安心して悲しもう。感情はあなたを覆いつくし、一時期あたなを飲み込んだとしても、決してあなたを壊しはしない。でも、それでもどうしても辛いときには、勇気を出して助けを求めてほしい。そして、あなたがあなたの悲しみを通して人の奥に隠された悲しみに気づけるようになったとき、そこからまた新しい人生が始まっていく。


どうか、あなたがまた今を見つめ、未来を希望し、笑顔で、喜んで、あなた自身を生きはじめる日が早く訪れますように。そしてどうか、あなたが、あなた自身の悲しみを通して、より豊かに人と交わり、より優しく自分を、人を、世界を、愛することができますように。





Nelson Cavaquinho & Guilherme de Brito。偉大なるサンビスタ、詩人の魂をもつ音楽家、心の歌をつむぐ人達。いつだって大好きなとっておきの歌だが、枯葉散るこの季節には、特に歌いたくなる。





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2011年11月27日

願いと思い

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「ただ耳を傾けてもらい、静かに共感してもらって、優しく受け入れてもらう」機会を求めている人はたくさんいるはずなのに、実際には、なかなかそういう機会は少ないように思う。人はどうしても意見したがり、他者の言葉を聴くよりも自ら話したがり、ネガティヴ(に聞こえる)な言葉を拒否したがり、共感ではなく主張をしたがる。


自らもそんな機会や相手を求めることが多々あるはずなのに、人はついそのことを忘れ、誰かがそういう機会を求めているということに気づかないまま過ごしてしまう。「誰か、私の話を聞いてください。」という無言の訴えは決して遠くの事情ではなく、ごくごく身近にたくさん潜んでいるというのに。


人が安心して話せる場所、人が安心して自らの内なる物語を語れる場所を作りたいという思いは今も変わらない。人が一人立ち寄り、安心して自分に向き合い、自分を受け入れ、自らに安らぐことを思い出せる場所。肯定と安心に満ちた心の一時休憩所。そのためにはまず、私自身がいつも私に安らいでいたい。



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2011年11月24日

ハビエル・ガラルダ神父のお話に触れて

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10月より週に一度、上智大学で開催されている「グリーフケア講座」に通っている。今日は、イグナチオ教会司祭であり、上智大学名誉教授でもいらっしゃる、ハビエル・ガラルダ神父が『この世の神の国』というテーマでお話してくださった。


「この講座は知識を教え与えるものではなく、皆さんそれぞれの心に既に存在している素晴らしいものを汲み上げ表に引き上げるためのもの。紅茶カップの底にに沈んだ砂糖をかきまぜるためのティースプーンなのです。」という神父のお言葉通り、深く優しく心を耕され、心の奥から温かい穏やかな感覚がおのずと湧き出てくるような、何にも代えがたい素晴らしい時間だった。


『自己愛とエゴイズム』『自己愛と献身』『アガペーの愛、エロスの愛』等の著書をお持ちのガラルダ神父のお話だけあって、「アガペー」について様々に例ををあげ、キリスト教や聖書に全く触れたことのない人にも伝わるよう丁寧に教えてくださった。


「この世の神の国」を作る礎はアガペー=隣人愛。隣人愛とは、分かりやすく言えば「与える愛」であり、つまりは「人を大切にすること。」だと神父はおっしゃった。そしてそれは、考えたり語ったりするものではなく、尊敬と喜びに満ちた実践である、と。


最も心に残ったのは「アガペーが求めるのは「私」が人を助けることではなく、「人」が助かることである。主語は「私」ではなく「人」なのだ。」というお話。人間ならば誰しも行為の報いは期待するし、それは決して悪いことではない。ただ、報いそのものを、行為の目的や理由にしないことが大切なのだ。そして最も重んじられるべきことはなのは、行為を成す「私」ではなく、その「人」が助かるのか、喜ぶのかということなのだ。


自分の内側にひっそりと存在している「善きもの」に、たっぷりと慈しみの水を注いでいただいた90分間。知識や情報を得ることよりも遥かにありがたく、豊かで、幸せな体験だった。ありがとうございました。




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2011年11月21日

山尾三省さんの詩

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宙ぶらりんな心と、重い荷物、強張った体を携えて、徐々に冷えていく夜道を歩いて帰る途中、近所の古本屋の灯りの下にたたずむ店主と目が合い、「あ。」と思わず声を出した。そうしたら「どうぞ。」と扉を開けられたので、せっかくだから何か一冊買って帰ることにした。


以前立ち寄った際に気になっていた本がまだ残っていたので、これなら今日の予算内だと店主に手渡そうとした矢先、レジ横の本棚に、山尾三省の『森羅万象の中へ』が並んでいるのが目に入り、またも「あ。」と呟いて止まってしまった。


『森羅万象の中へ』は、まだ値段がつけられていなかった。何気なく捲った頁には、私の知る数少ない三省さんの詩の中でも、一番好きなものが書かれていた。その文字が目に入った途端、息苦しかった胸元が少しだけ緩んだような気がしたから、迷わず買うことにした。店主が急いで付けてくれた値段は大幅に予算オーバーだったが気にならなかった。


捲った頁に記されていたのは『星』という短い詩。とても静かで、きっぱりと潔く、それなのに言葉の隙間からは宇宙が広がるが如く光と闇が溢れ出し、そこには無限の時が流れ、無数の命が輝いている。その言葉は心を遠き星へと誘い、魂を懐かしい何処かへと連れ帰ってくれる。とても、とても、美しい詩だ。


人はときどきは自分に帰る時間を持たなくてはならない。そうしなければ人は心を見失う。自分が自分に帰るとは、心が心へ帰ることであり、星に帰ることであり、空へ帰ることであり、祈りに帰ることであり、内なる故郷へと帰ることだ。山尾三省さんの言葉は、読む者の心を、その最も神聖な部分へと誘う。


三省さん、ありがとう。



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忘れることなきように

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誰が悪いわけではなく、何が悪いわけではない。ただ、人それぞれに生きたい生があり、求める生があり、安らう生があるだけだ。けれど、そうして人は期待しては落胆し、求めては得られず、傷つけあい、痛んでいく。誰が悪いわけでもなく、何が悪いわけでもない。けれど、だからこそ生きることは悲しい。


人にはみなそれぞれ、人知れぬ背景があり、人知れぬ思いがあり、人知れぬ悲しみがあり、人知れぬ苦しみがあり、人というものはみなそれぞれ、誰にも明かさぬ己を抱えて、時にもてあまし、時に翻弄され、時に自惚れながら、行きつ戻りつ生きている。人の生にはみなそれぞれに、それぞれの悲しさがある。


それでもやはり、人の生とは、この上なく愛しいものなのだろう。いずれの生もみな等しく尊く、美しく、だからこそ、それぞれの生はこの上なく切なく、来てはやがて帰る人々の姿はみな眩しく、だからこそ生きていることはとても悲しい。この悲しさこそが、やはり、人が生きるということの根底なのだと思う。







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2011年11月15日

空へ

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人の悲しみひとつ消すことのできない己の無力さがかなしい。
人の苦しみひとつ肩代わりできない己の無能さがかなしい。
人の痛みひとつ取り除くことのできない己の非力さがかなしい。


できることは、ただ見ていることだけ。
自分と他者という絶対的分離のかなしみ。
いつも、いつも、生きることはかなしい。


あなたの悲しみを共に引き受けることはできないし
あなたの絶望を同じように背負うことはできないし
あなたの痛みをこの体に感じることはできないし
あなたの苦しみを自分のことにはできないけれど
あなたが悲しいと、それでもやっぱり私も悲しい。
けれどこれもきっと、自分勝手な欲求なのだ。


無力なままに、無能なままに、非力なままに、
かなしみはかなしみのままに、それでもなお祈り続けよう。
忘れずに、目をそらさずに、逃げずに、
厭わずに、変わることなく、微笑み続けよう。


青い青い空、流れゆく雲、そして音もなく渡る風を心に描く。
小さな自己憐憫など、空に溶かしてしまえばいい。







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2011年11月13日

音楽という現象

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卓越したミュージシャンの奏でる音というのは、思考や意図を超えているのか、または逆にとんでもなく原始的で肉体的なものなのか、とにかく、高尚で正しい理屈や理論を知ろうが知るまいが、そんなものをすっ飛ばしてなんの根拠もなく時空から直に引き出されたような、言葉にしがたい驚きと美しさに満ちている。


昨夜友人と話していたのだが、そういう音楽家達は、言ってみれば直管型なのだ。意識よりも先に音になってしまう、そんな感じなのではなかろうかと想像する。響きや音の色など目指すところはあれど、結局は「こうしたい」という意図などを超えて、「そうなってしまう」「そうならざるを得ない」音楽なのではなかろうか。


なんの疑いもなく、というよりも、そんなことを意識することすらもなく、「そうなってしまう」という音楽の力。そんな音楽という自然現象に自らを委ねきることができるというのは、それそのものが才能であり、そんな音楽家はやはりそうそう存在するものではないのだろうと。(紙一重、という言葉が頭に浮かぶ。)



それは音楽だけのことでなく、言葉も、絵画も、舞踏も、あらゆる表現に共通することのように思う。徹底的に極限に近いまでの意識を張り巡らせる過程を経てそこに辿り着く人もいれば、天分としてその才能を与えられて生まれてくる人もいる。いずれにせよ、共通しているのは、多くを望まず、惜しみなく捨てられるということだ。


何を捨てるのかといえば、知識、経験、歴史、感情、自我、だろうか。言い換えれば、音楽を前にして「自分」を捨てられるということかもしれない。なんの惜しみもなく、なにを怖れることもなく、あらゆる自分を脱ぎ捨て、放り去ることができるという才能。だからこそ、その音には、その人の命の波動が浮き彫りになるのだろう。



卓越した音楽家の音を聴いていると、それが楽器の音色としては聴こえてこず、それどころか、それが音であるということすら気づかせず、まるで命の波動そのものをダイレクトに浴びているような、美しくも得体の知れぬうごめく生命体を眺めているような、そんな感覚に陥ることがある。音は、その人そのものなのだ。


それもやはり音楽だけのことではなく、絵画でも、言葉でもやはりそうで、ありとあらゆる表現を通して、人は、それを生み出した作者その人の命のうごめきや魂の波長を感じ取っているのではないかと思う。中でも音楽は特別で、目には見えず、時と共に消え去るからこそ、その度合いが強いのだ。


時々そんなことを考えているのだが、そこでいつもたどり着く答えがある。知識も、意図も、経験も、歴史も、すべての自我を脱ぎ去った者によって直に差し出される命の波長としての音(音楽)が、とてつもなく豊かで美しいということは、つまり、命そのもの、人が生きているということそのものが、美しいということだ。



世界のトップドラマーの一人、Peter Erskinの言葉を見つけたので記しておく。
「音楽と喧嘩しない、自分と喧嘩しない、考えてはいけない。周りをよく見て今という時間に集中すること。自分のどこに無駄な力がはいっているか、どうすればその力を抜くことができるか、本当に大切なものをどれだけ大切にできるか。それが個性なんだ。」


音楽でもなんでもそうだが、本当に大切なものを大切にするということと、自らの思い入れや望みを守るということは、実は全く正反対のことなのだろうと思う。結局、「自分」というところに留まっている限り、決して音楽(をはじめとするあらゆることの本質)には辿り着けないのだ。本当に大切なのは、今その瞬間にある音楽なのだから。そして、それは自分などを遥かに超えているもの。



音楽は私にとって、心の癒しや、人生の潤いなどという程度のものではなく、その豊かさを通して、生きるということのなんたるかを根底から教え正してくれる糧であり、同時に、生きているからこそ味わえる至福(喜び)を体と心に惜しみなく与えてくれる天からのありがたい贈り物だ。もう、何度も何度も書いていることだが、やっぱり、いい音楽が好きだ。





空を吹き抜け、木々を揺らし、水を運び、大地を撫でる風のような音楽でも、たとえばブラジルのそれとフィンランドのそれとでは、色彩や感触や温度やにおいや光の在り様が全く異なるのは、その音を奏でる人が、それぞれに異なる地に生まれ育ったからなのだと思うと、とても面白い。

そんな当たり前のようなことに気づいて驚いている。その土地の温度、湿度、色、におい、味、肌触り、また、そこに暮らす人々の肉体と気質、日々の営み、食物、作物、労働、そして信仰、歴史・・・そんなありとあらゆる要素が組み合わさってその土地固有の個性を育み、それが明らかな音の違いとなるのだ。なんて面白いんだろう。



友人から教えてもらって知ったこの動画。この人の音色は風を思わせる。それも、どこまでも透き通った、湿り気のない、清らかな風。





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2011年11月12日

言葉というもの

201105201

言葉のインフレ。あちこちで大量生産され、垂れ流されては消費される、形骸化した言葉。大袈裟に書き立てられる、あまりにもお粗末な奇跡、感動、はたまた人生や命。言葉までをも消費しようとする傲慢さと愚かさ。そして空疎な言葉に煽られては流され続けるという、一種の思考停止。


言葉が無残に消費されるのを見ているのは辛い。あちこちで目に飛び込んでくる、言葉の価値を下げるような浅はかな表現に、ため息をつきたくなることも多々あるが、そのたびに自らの言葉を振り返る機会をいただいているのだと思い直すことにしている。


言葉(音楽もそうだが)は、人にそうそう制御操作できるものではなく、ましてや自らを装飾したり、他者を欺いたりするための道具になど決してなり得ないものだ。偽りの言葉、空疎な言葉を使えば使うほど、その人本人が空疎なものとなり、言葉の価値を下げれば下げるほど、同時にその人自身の価値も下がっていく。


そんなに簡単に言葉にしないでほしいと思うことがある。勝手な解釈で、端的な表現で、片付けてしまわないでほしいと思うこともある。あまりに大袈裟な言葉の乱立に辟易することもある。どこかで拾ってきたような偽者の言葉で表そうとすればするほど、人や世界やあらゆる物事の本質を取り逃し続けていくような気もする。


言葉が先なのだ。どんな言葉を語るかによって、その人は作られ、その人そのものの本質的価値も変化するのだ。言葉で真実を述べるのではなく、言葉それそのものが真実なのだ。やっぱり、そう思う。


言葉をも消費し、傲慢にも自らの勝手で言葉の価値を下げ、空疎な言葉を纏って自らを虚飾し続ける人間の行き着くところは、どこなのだろう。そう想像すると、ただただおそろしい。



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2011年11月10日

悲しみを生きる力に

20110715

上智大学コミュニティカレッジで開催されている「グリーフケア講座」。第5回目は、マザーリング研究所の所長でいらっしゃる、たけながかずこさんの講演。「愛する夫を看取って」というタイトルで、夫である近藤裕氏(『自分の死にそなえる』著者であり、多岐にわたって活躍されたメンタルコンサルタント)を看取られた経験、その喪失の悲嘆、そしてそこからこそ生じる力について、グリーフワークの真っ只中から、心に強く深く響くお話をしてくださった。


先月から始まったこのグリーフケア講座では、毎回本当にたくさんの学びを、気づきを、知恵を、共感を、激励を、慰めを、そして力をいただいている。それはまだ端的に言葉にはできないのだが、しかし、私の内で確かな力として生きることの導きとなっている。今日はまた一つ、強い意志が私の中で確かになった。


悲しみを通してこそ見えることがあり、悲しみを得てこそ生きられる道がある。そして、悲しみを体験して初めて気づく自分というものがあり、悲しみを通して人の生は広がりと深みを増していく。喪失の深い悲しみ、悲嘆という体験の健全で美しい面に目を向ける機会を、もっと広く、もっと身近なものとして、多くの人が分かりあい、分かち合える社会になればいいと願う。


今日の講演で、たけながさんが繰り返しおっしゃったこのは「共感的理解」という言葉だった。私と似た悲しみを抱えて生きる人、あなたもまた喪失を味わい、深い悲しみを背負っているのですね、という共感と共鳴。人の心は、他者の心と響きあうことによって自ら癒えていき、そして、そのことによって、「それでもなお生きる」ための力を取り戻していく。



講座のはじめと終わりにはいつも、上智大学グリーフケア研究所の所長である高木慶子先生が短いお話をしてくださる。「『悲しんでいいのよ。どうぞ存分に悲しんでください。』といううことだけがグリーフケアではありません。その人自身がご自分を輝かせる生を生きること、そのために激励し、立ち上がらせることもケアなのです。」という高木先生の言葉が強く心に響いた夜だった。



計12回にわたる講座だが、1回ごとに、本当にたくさんの学びを受け、内面が大きく揺さぶられ、多くの刺激を受けて、自分が活性化していくのがよく分かる。それは言葉にまとめきれない混沌としたものではあるが、私がどこに向かいたいのかということを、鮮明に指し示していただける有難い機会だと思っている。



以前から抱いている一つのビジョン。講座を通して、そのビジョンが間違いではなく、その目指すところを既に行動されている先人方が多くいらっしゃるということを教えていただいている。これから、どのようにしてそのビジョンを実現していけばいいのか、今はまだまったく分からないが、「あの星に向かって確かに歩んでいる」という確信だけはある。


来週のグリーフケア講座は、夜回り先生として知られる水谷修さんの講演だ。「あした、笑顔になあれ―」と題された講演。どのようなお話しを伺えるのか、そしてどのように心を揺さぶられるのか、とても楽しみでしかたがない。この講座に申し込んで、本当に良かったと心から思う。この機会とご縁をいただけたことに心から感謝して、歩いていこう。





この歌、この歌声が聴きたいなと、ここ数日ずっと思っていた。いつ聴いてもすばらしいのだけれど、静かな月の夜には特にふさわしい気がする。







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